桜を見る会をテクストとして見てみる―さまざまな文脈による開かれたあり方と、単一の文脈による閉じたあり方

 桜を見る会についてを、かりに一つのテクストだと見なす。そう見なせるとすると、それは開かれたあり方をしていることになる。

 会についての首相による弁明は、演繹(えんえき)によっていて、上からこうだとするものである。問題はなかったのだとするものである。これは、会について、テクストでいうといわば作者による神学的な意味の決めつけだと言えるだろう。そこでは作者は神となる。

 批評家のロラン・バルトは作者の死ということを言っているという。作者の死というのは、読者の誕生によってあがなわれることになる。

 会についてを開かれたテクストだと見なせるとすると、そこには色々な解釈の見こみがある。さまざまな文脈がなりたつ。演繹によって上から一つの意味を決めつけることはできそうにない。そのように一つの意味を決めつけてしまうと、テクストが閉じてしまう。

 テクストというのは織り物(texture)という意味なのだが、その織り物の中には、会をもよおした首相が自分で意図したものや意識したものではないものもまた混ざりこむ。首相は自分ですべてを制御できているのではない。完全にまちがいを避けられるのではなくて、手ぬかりやうっかりとしたまちがいなんかが中に入りこむ。そういったさまざまなものを色々に含みもつのが織り物としてのテクストだ。

 会そのものや、会の前に開かれた前夜祭や、会や前夜祭についての首相の弁明が、それぞれに織り物としてのテクストとして見なせる。テクストというのは、必ずしも首尾一貫したものではなくて、その中には色々に矛盾したものが混ざっている。テクストは一般としてそういうところがあるとされるのだが、首相の弁明の中には少なからぬ非一貫性や矛盾や(現実との)非整合性が見うけられるので、それが色々な人からさし示されている。

 テクストの中にある、非一貫性や、矛盾や、空虚な部分を見つけて、それについてをさし示したり、埋められなければならない空虚な部分を適した形に充てんしたりしなければならない。テクストというのは、いっけんすると全体が充実しているように見えるのだが、その中によく見ると空虚な欠乏した部分があることがある。

 テクストの中に見いだせる細かいところをいちいちさし示すのは、大きく国民の益になることだとは言えず、とるに足りないことだというのはあるかもしれないが、細かいところであっても、具体の大小の部分に焦点を当てて見て行くのは、(眠りこんでいるのではなくて)活性化された精神のなせるわざなのである。この活性化された精神というのは、さまざまなところでさまざまな他の人の手によって行なわれているものであって、このブログ(この記事)においてできていることではないが。

 参照文献 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら) 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司