選択の夫婦の別姓にすることによって失われる家族の一体感とは何なのだろうか―家族のもつ危険性

 夫婦が別姓になることを選択できる。別姓になることを選択できるようになったら日本の家族の一体感が失なわれてしまう。日本の家族が壊れてしまう。そう言われるのがあるが、それは当たっているのだろうか。

 強制の夫婦の同姓によってかりに家族の一体感がおきるのだとしても、その一体感は保たれつづけるよりもむしろ壊れたほうがよいのではないだろうか。

 強制の夫婦の同姓は、男性と女性が対等なのではなくて、女性にだけ強く参与(commitment)を強いる仕組みになっている。女性が夫婦や家族の関係から離脱しづらくしているのがあり、きびしく言えばそこに正当性があるとは言えそうにない。正当性があるとは言えないところがあるので、そこからおきることになる家族の一体感があるのだとしても、それはむしろ壊れてしまったほうがよい。そう見なすことがなりたつ。

 家族とは、必ずしもよいものではない。家族はどちらかといえば小さい集団であり、小さい集団は危険性をもつことがある。小さい集団は閉鎖性をもつことがあるので、そのなかでぜい弱性や可傷性(vulnerability)をもつ人が標的にされて暴力をふるわれる。おもに女性や子どもなどが標的にされて暴力をふるわれやすい。損をこうむりやすい。そこを救い出すことがいる。

 理想論としては家族は安らぎを得られるところであるべきだが、現実論としてはそうではないことが少なくない。家族の中は危険性が高い。ひどいときには殺人がおきることがある。そこまで行かなくても、家族の中は危険な場所なので、個人が幸福を得ることから逆行してしまうことがしばしばある。

 家族すなわちよいとはいえないのがあるから、そこに一体感があることは必ずしもよくはたらくとはいえず、悪くはたらくことがある。それが悪くはたらくこととして、戦前や戦時中においては、日本の国をひとつの家族だと見なしていたのがある。天皇制で天皇を父親だとしていたのである。これは父権主義(paternalism)のまちがったあり方であるのにほかならない。

 個人ができるだけ幸福になりやすいようにするために、家族によって損をこうむらないようにして行く。家族によって個人が不幸におちいらないようにして行く。家族の中でとりわけぜい弱性や可傷性をもつ弱者が暴力を受けづらいようにして行く。

 安全性があって、そこから安らぎを得られるとはいえないところがあるのが家族である。危険性が高いことがある。それをくみ入れるようにして、家族がひとつの全体になって全体化されないようにして、脱全体化されるようにしたい。家族のためといったことであるよりも、一人ひとりの個人に焦点を当てるようにして、一人ひとりの個人が尊重されるようであればよい。

 選択で別姓を選べるようにできたほうが、強制ではないようにできるのでよりよいものだと見なすことがなりたつ。日本では選択することがよしとされづらく、強制がよしとされやすい。選択の自由が否定されやすくて、強制による選択の不自由がよしとされやすい。強制の夫婦の同姓は、選択の不自由となっているものだろう。

 とにかくそうなっているのだからそれを受け入れるしかないといったような既成事実にたいして弱いところがあるのが日本の国のあり方だが、それがあらわれ出ているのが強制の夫婦の同姓だろう。既成事実が重みをもつのがあり、その慣習の他律(heteronomy)のあり方を見直す機会を持つようにして、自律(autonomy)によって反省することがあったらよい。

 参照文献 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『絶対幸福主義』浅田次郎

ミャンマーの軍事政権に見られる啓蒙の弁証法と、世界の大国の責任

 ミャンマーの軍事政権は、排除の暴力を国民にふるいつづけている。なぜミャンマーの軍事政権はそれをしつづけることができるのだろうか。さまざまな理由があるのだろうが、大国である中国やロシアがうしろについているのが関わっていそうだ。

 中国の政治家の毛沢東は、目の前にある副次の矛盾のおくにある主要な矛盾を認知せよと言った。目の前にある副次のことのおくにある主要な核となるところを見て行く。それをくみ入れるようにしてミャンマーでおきていることを見てみたい。

 ミャンマーの国内でおきていることを副次の矛盾だと見なせるとすると、そのおくにある主要な矛盾としては、大国である中国やロシアがそのうしろについているのがある。国内でおきている副次の矛盾のおくにある主要な矛盾に目を向けてみると、国の外が関わってくる。中国やロシアは、ミャンマーの軍事政権が排除の暴力を国民にふるうことをよしとしているのがある。

 啓蒙が野蛮に転じる。哲学者のテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーは啓蒙の弁証法を言った。ミャンマーの軍事政権は、自分たちは正義によっているとしているのかもしれないが、啓蒙が転じて野蛮になっている。それで国民にたいして排除の暴力をふるうことになっている。

 国民にたいして排除の暴力をふるうといった野蛮なことがおきてしまっているのは、世界の大国の責任が少なからず関わっている。ミャンマーの国内だけを見れば副次の矛盾を見ることにとどまるが、そのおくにある主要な矛盾に目を向けることができるとすると、国の外に目を向けられる。世界の大国の中で、中国とロシアがミャンマーの軍事政権の肩を持ってしまっているのが悪くはたらいている。

 中国やロシアだけではなくて、アメリカもまた大国としての責任があるのはいなめない。アメリカではいま社会の中で新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が広まっていて、そのなかで東洋系の人たちへの差別がおきているという。アメリカの国内においても、基本の人権(fundamental human rights)が侵害されるようなことがいろいろにおきているのである。

 大国の責任としては、中国やロシアだけではなくて、アメリカにもそれがあるのがあり、大国どうしで対話を行なうことが欠けてしまっている。中国やロシアだけではなくてアメリカにもまた悪いところが少なからずあるのだから、善と悪といった二分法に分けられるものではない。

 副次の矛盾だけではなくてそのおくにある主要な矛盾にまで目を向けられるとすると、ミャンマーでおきていることは、ミャンマーの軍事政権だけにとどまらず、世界の大国に責任があり、また世界のさまざまな国に責任がある。世界の国どうしでたがいに民主主義による対話をなすことが欠けてしまっているのが悪くはたらいている。

 他国の汚点は自国の汚点といったところがある。他国も自国も国である点では共通点をもつ。どの国もそのなりたち(建国)は暴力によっていることが多いとされる。そのことをくみ入れるようにしてみたい。ミャンマーの軍事政権が行なっている悪いことは、国の政治がなす悪いことだが、ほかの国でも多かれ少なかれ悪いことはおきているのだと見なせる。アメリカにおいても国内で人権の侵害がおきているのがあるから、必ずしも他人ごとだとは言えないものだろう。それぞれの国がそれぞれに悪いところを抱えているのがあり、国の中に呪われた部分をもつ。

 国の中にある負のところである呪われた部分を見るようにして、そこを無視しないようにする。それぞれの国がもつ呪われた部分を見るようにしつつ、世界の国どうしで民主主義の対話をなすようにすることがのぞましい。世界の国どうしで対話をなすようにすることが、間接としてミャンマーの軍事政権がやっているような悪いことを未然に防いだり、悪いことのていどを軽いものにおさえたりすることにつながるのではないだろうか。

 参照文献 『古典の扉 第二集』杉本秀太郎(すぎもとひでたろう)他 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『啓蒙の弁証法テオドール・アドルノ マックス・ホルクハイマー 徳永恂(まこと)訳 『橋下徹の問題解決の授業 大炎上知事編』橋下徹リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)

夏の東京五輪を行なうことと、さまざまな不確実性

 夏の東京五輪のための聖火リレーがはじまった。五輪にお金などを出しているコカ・コーラ社のはではでしい赤い車がリレーを先導していた。はたしてそれを聖と言えるのかと、ツイッターのツイートでは言われていた。

 聖火リレーは、聖であるよりも商と言えるかもしれない。コカ・コーラ社の宣伝車が先導しているのは商であり俗である。自社の商品を宣伝する思わくが明らさまだ。また、聖であるよりも政とも言える。五輪のもよおしによって日本の政権を浮揚させるねらいがあるからだ。

 走ることが予定されていたさまざまな芸能人が聖火リレーを辞退する動きがおきている。ほかの予定との調整が合わなくなったなどのさまざまな理由をあげて芸能人は聖火リレーで走ることを辞退することを決めている。辞退することのリレーがおきているのだ。

 聖火リレーで走ることの得や利益と損や害を計算してみて、損や害のほうが上回ると見なしたために、さまざまな芸能人が辞退することを決めたのかもしれない。そもそも、聖火リレーで芸能人が走ることは、そんなに高い動機づけによるものではないのがありそうだ。どうしてもといったほどのものではないし、何が何でもといったような理由がない。自発性によるのではなくて、他に頼まれたからといったことで、何となくといったようなものだろう。

 東京五輪のもよおしに見うけられることとして、どのようなことがあるだろうか。そこに見うけられることとして不確実性がある。

 不確実性があるのにもかかわらず、それを隠ぺいして、無いことにしてしまう。あたかも確実性があるかのようによそおう。日本の国ではそうしたことが行なわれやすい。そうとうに不確実性が高かったのにもかかわらず、それを隠ぺいして無いことにして、あたかも確実に日本の国が勝つかのように嘘をいい、戦争につっ走っていった。まちがいなく日本の国には神風が吹くのだとしていた。

 東京五輪聖火リレーは、東日本大震災の復興をしめすために、被災地が一つの出発の地点とされた。被災地には原子力発電所がある。原発は事故をおこしたのがあり、不確実性をかかえている。

 日本は地震国であり、いつ地震がやって来てもおかしくはない。天災は忘れたころにやってくると言われる。もしも東京五輪を開いている最中に大きな地震がおきたらどうするのかといったことが言われている。来日している五輪の関係者を災害に巻きこむことになる。原発が事故をおこすおそれがあるから、その心配もある。

 いまは社会の中に新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が広まっているのがあり、不確実性がおきている。確実に感染を減らすことができづらいために、先行きを見通しづらい。

 日本の夏はそうとうに気温が高くなるのがある。自然の環境が破壊されることによって地球が温暖化していて、むかしに比べて夏がより暑くなっている。その中で東京五輪をひらくのは適したことだとは言えそうにない。冷夏になればまだよいだろうが、もしもとんでもなく暑くなったらその中でスポーツをするのは人間らしい営みであるとは言いがたい。熱射病がおきて選手(や観客)が死ぬことがおきたら大変だ。

 自然の環境の破壊による地球の温暖化にはいろいろな説があり、むしろ逆に冷えて行くのだといった説もある。だから絶対にこうだといったような断定をすることは避けなければならないかもしれない。その中で一つの観察による見かたとしては、地球が温暖化していっているしるしとして、北極の氷は確実に溶けていっていて、全体の氷の量が少なくなっているのだと言われている。

 東京五輪とその前のもよおしである聖火リレーから見えてくることは、さまざまな不確実性を日本の社会が抱えているのにもかかわらず、それが隠ぺいされてしまい、無いことのようにされてしまっている。あたかも確実性があるかのようにされている。その確実性は虚偽のものとして構築(construction)されたものだが、それが崩れてきていて、さまざまな不確実性があらわになっているところがある。確実性による虚偽の構築によって見えなくなってしまうさまざまな不確実性を見るような脱構築(deconstruction)を行なうことがあったらよい。

 参照文献 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『大地震は近づいているか』溝上恵 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし) 『北極大異変』エドワード・シュトルジック 園部哲(そのべさとし)訳

元首相がまた失言をしたようである

 集まりの中には、大変なおばちゃんがいる。女性と言うにしてはあまりにもお年である。与党である自由民主党に属していた森喜朗元首相は、集まりのあいさつの中でそう言ったのだという。

 集まりの中の高齢の女性にたいして、森元首相はなぜ報じられているような内容のことを言ったのだろうか。ここで言われている女性を男性と入れ替えてみたら、同じことがなりたつのだろうか。女性ではなりたっても、男性ではなりたちそうにない。男性と言うにしてはあまりにもお年だ、とはあまり言わないものだろう。

 森元首相が言ったことからうかがえるのは、国家の公の視点からものを言っているうたがいがあることである。国家の公のための道具や手段として女性をとらえているうたがいがある。そう見なすことがなりたつ。

 たとえ女性がどれくらい年をとろうとも、そのことについていちいち国家の公に口出しされるいわれはないものだろう。個人の私の視点からすればそう言うことがなりたつ。個人を道具や手段ではなくて、目的そのものとしてあつかうようにする人格主義(personalism)によるものである。

 人どうしが会話をしている中で、会話をしている人にじかに面と向かって、性別にからめる形で、ずいぶんお年なんですね、といったことを言うのは失礼に当たる。性別がどうかについてと、年がどうかについてを、からめる形で人にたいして言うのは礼を失するものだろう。ことわざでは、親しき仲にも礼儀ありと言われるのがあるから、たとえ親しいあいだがらなのだとしても礼を失してよいとはならないものだろう。

 人格主義によるようにして、個人の私を目的そのものとしてあつかうようにすることが、個人を尊重することだ。国家の公のために個人の私がいるのではないのだから、個人を尊重するようにして、基本の人権(fundamental human rights)を侵害しないようにしたい。

 国家の公の視点に立ってしまうと、国家のために人口を増やすことがいり、子どもを生むことができる女性には価値があるが、そうではない女性には価値がない、といった差別がおきかねない。森元首相が言ったことの中には、この国家の公の視点からの差別がかいま見られるところがある。

 高齢なために、いまから新しく考え方を変えるのは難しいのだから、森元首相が失言をしたことは大目に見るべきだ。そう言われるのがあるが、そのさいに、かりに森元首相の個人の失言のことはカッコに入れられるとして、それとは別に、日本の社会の中にあるよくない悪い価値観は改めて行くことがいるのだと見なしたい。

 日本の社会の中にあるさまざまなよくない悪い価値観がそのままになっていて、それが放ったらかしにされることによって、生きて行くことが苦になる個人の私が出てきてしまう。すべての個人の私が楽に生きて行けるようにするために、日本の社会の中にあるさまざまなよくない悪い価値観が少しでも改まり、偏見が少しでも減ることをのぞみたい。

 参照文献 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編

政治におけるよいものと悪いものを、動物たちを引き合いに出して見てみたい

 政治において、よいものと悪いものとがある。それを動物に見立てるとするとどういったものが当てはまるだろうか。よいものに当たるのには羊やねずみがいる。悪いものに当たるのにはオオカミや猫がいる。

 オオカミは強い自我である。強い自我をもつ主体が優となり、客体を劣に置く。主体は能動で客体は受動だ。客体は主体から一方的に(下位に当たるものとして)意味づけられるのにとどまる。そういうあり方とはちがい羊は弱い自我である。羊どうしはお互いに対等であり、おたがいの自由をよしとする。自由を否定するような、ほかのものよりも上に立つ超越の他者をこばむ。超越の他者によって動かされる他律(heteronomy)によるのではなくて、自律(autonomy)をよしとする。

 ひとつの国の中の政治において、悪いものであるオオカミや猫が上の地位にずっととどまりつづけてしまう。独裁主義や専制主義だ。悪いものであるオオカミや猫を上の地位から引きずり下ろす。猫であれば、だれが猫に鈴をかけられるのかがある。ねずみの集団においてそれが問われることになる。

 ねずみの集団がみんな尻ごみしてしまう。猫に鈴をかけるものがだれもいない。そうなると社会の矛盾が引きおこる。猫に鈴をかけるべきなのにもかかわらず、それが行なわれていないありさまだ。ねずみの集団の中にだれも猫に鈴をかけるやり手がいない。それどころか、猫をそんたくして服従したり同調したり順応したりすることがおきてくる。猫の奴隷やたいこ持ちになる。権威主義である。

 ひとつの国をこえて世界の政治に目を向けられるとすると、そのさいに悪いものであるオオカミや猫に当たるのにはどんなものがあるだろうか。世界の政治において悪いものであるオオカミや猫に当てはまるものとして、民主主義を否定するような政治をしている国があげられる。具体としていうとロシアや中国があげられる。ロシアや中国は民主主義を否定しているのがあり、悪いものであるオオカミや猫になぞらえることがなりたつ。

 世界の政治においてどうして悪いものであるオオカミや猫がいつづけてしまうのだろうか。そのわけとしては、ひとつの国が主権をもっていて、それが絶対化されてしまっていることがあげられる。国が主権をもっていることがわざわいしているのである。

 それぞれの国がお互いに味方と敵に分かれ合い、不信をもち合う。それぞれの国が自己保存に力を入れて行く。そのことによってそれぞれの国がお互いにオオカミや猫になってしまう。オオカミや猫どうしの争い合いがおきて、万人(各国)による万人(各国)の闘争が引きおこる。自然状態(natural state)つまり戦争状態になる。

 ひとつの国そのものは善であるよりも、むしろ悪であるオオカミや猫になりやすい。国は悪であるオオカミや猫になりやすいのがあり、それは国がその地域における暴力を独占していることによる。国は国家装置である軍隊を抱えもつ。

 国は悪であるオオカミや猫になりやすいのがあり、歴史において大きな失敗が引きおこされてきた。その大きな失敗の経験をくみ入れてつくられているのが近代の立憲主義による憲法だとされる。立憲主義によるようにすれば、よいものである羊やねずみのあり方が保たれやすい。よいものである羊やねずみのあり方は、自然状態つまり戦争状態から脱して社会状態(civil state)をなすものである。

 ひとつの国の中においても、またそれをこえた世界においても、政治では悪いものが力をもってしまっている。悪いものが力をもってしまい、よいものを否定する。動物でいうと、オオカミや猫が上の地位にいつづけるようになり、羊やねずみが排除される。猫に鈴をかけるにない手がいない。権威主義がおきてしまい、オオカミや猫の言うことをきいて、羊やねずみをいじめる。上から下への抑圧の移譲がおきる。その中でよいものである羊やねずみをどのように力づけることができるのかがあり、猫に鈴をかけることができるようになれば、民主主義を保つことがなりたつ。

 参照文献 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一現代思想を読む事典』今村仁司編 『爆笑問題のニッポンの教養四 人間は動物である。ただし… 社会心理学太田光(ひかり) 田中裕二(ゆうじ) 山岸俊男憲法という希望』木村草太(そうた)

ミャンマーの軍事政権は罪のない子どもにたいして排除の暴力をふるっているようだ

 ミャンマーでは、軍事政権の排除の暴力によって多くの罪のない子どもたちが殺されているという。とつぜんに家の中に入りこんできた軍人たちによって、家の中にいた七歳の子どもが殺されてしまったという。どうして殺されなければならなかったのかの理由は不明だとされている。

 ミャンマーでは国家装置である軍隊が子どもを含めた国民にたいして排除の暴力をふるっているのがあるが、それは許されることなのだろうか。罪のない子どもたちが国家装置である軍隊によって殺されることがあってよいのだろうか。そこで失われてしまっているのは、すべての個人が持っているものである基本の人権(fundamental human rights)を守る姿勢だろう。基本の人権を尊重することが行なわれていない。

 頭をかち割るのではなくて、数を割る。それが民主主義なのだと作家のエリアス・カネッティ氏は言う。ミャンマーの軍事政権が行なっていることは、民主主義の否定であり、頭をかち割ってしまっている。基本の人権を否定することを行なっている。

 正しいことのためなのであれば頭をかち割ることはやむをえないのだとしてしまうと、国民に排除の暴力がふるわれてしまう。たとえどのような思想をもつ人であったとしても、とにかく生きていることは最低限において認めるようにする。価値についてはとりあえずカッコに入れておいて、事実として生きていることを認めるようにして、生存を認めるようにして行く。民主主義ではそれが必要だ。

 国家の公が個人のもっている思想についてを評価づけしてしまうと、個人の内面に介入することになる。国家の公が個人の内面に入りこむのは、近代の中性国家の原則に反することになる。国家の公は価値については踏みこまないようにして、事実として個人が生きていることを認めるようにする。価値についてはそれぞれの個人の自由にまかせるようにして行く。

 国家の公のために個人がいるのではないから、国家の公のための手段や道具として個人があつかわれるのではないことがいる。個人の私がそれそのものが目的としてあつかわれるようにする。人格主義(personalism)によるあり方だ。

 人格主義においては個人の私はそれそのものが目的としてあつかわれることがいり、すべての個人が等しく尊重されることがいる。個人の私が自己実現と自己統治をなすために、有権者となって政治に参加して行く。投票の権利を行使したり自由に発言をしたり行動をしたりして行く。

 できるだけおだやかなかたちで数を割ることによって政治をなして行く。現実論としてはそれが大切なことだろう。国民の頭をかち割るようなことが政治において行なわれるよりは、まだしも数を割ることによって政治がなされたほうがよいのがあり、民主主義によって政治がなされることがのぞましい。

 公正さや適正さの中で数を割るようにして、それで政治のものごとを決めて行く。理想論としてはそれがよいが、現実の政治においては、公正さや適正さが欠けてしまい、効率性によって数を割り、ものごとを速い速度ですすめて行く。多数派の専制がおきがちだ。それでも国民の頭をかち割るようなことが行なわれていないのであれば、国家装置である国家の暴力が暴走しているとはいえないから、ぎりぎりの抑制はかかっているのがある。最悪の一線を越えているとは言えそうにない。政治においてはいかに抑制をかけて、権力を分散させるようにして、抑制と均衡(checks and balances)をかけられるかが大切になってくる。

 参照文献 『現代思想事典』清水幾太郎編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫

表象である政治家によるうそと、政治家を代理する弁護士によるうそ

 まともな人であるのならば、自分が言うことを事実だとは思わないだろう。アメリカのドナルド・トランプ前大統領の陣営の代理人をつとめていたシドニー・パウエル弁護士は、裁判の中でそう言ったという。

 アメリカの大統領選挙で不正があった。トランプ前大統領はそう言っている。その代理人をつとめていたのがパウエル弁護士だ。トランプ前大統領が言っていることは、投票をになう会社の名誉を損ねることに当たる。投票をになうドミニオン社はトランプ前大統領を会社の名誉を損なったことで訴えている。

 パウエル弁護士が裁判の中で言ったように、もしもまともな人であるのならば、パウエル弁護士が言ったことを事実だとは思わないのだろうか。

 パウエル弁護士はアメリカの愛国者だといったことで、日本にいるトランプ前大統領をよしとする支持者から高く評価づけされていた。パウエル弁護士はアメリカにおける真の愛国者だとされていた。そのパウエル弁護士が、裁判の中で、自分が言ったことを自分で否定するようなことを言ったのである。

 裁判のなかでパウエル弁護士が言ったことを、逆(対偶)から見てみるとするとこうなる。パウエル弁護士が言っていたことを事実だと思ったのならば、まともな人ではない。パウエル弁護士が言っていたことをほんとうのことだと受けとったのならば、まともな人ではなくておかしな人なのにほかならない。

 言っていることをそのまま文字どおりに受けとって正しい意味になるのは論理だ。それとはちがい、言っていることとはちがうことを意味させるのは修辞(rhetoric)だ。言葉には多層性があるので、論理だったり修辞だったりが用いられる。相手をばかにするつもりで、あなたは頭がよいと言うのは皮肉であり修辞である。パウエル弁護士が言っていたことは、論理よりも修辞に当たることになる。修辞を(論理としてではなくて)修辞として受けとることをパウエル弁護士はのぞんでいた。

 意図(intention)と伝達情報(message)と見解(view)の三つの点による IMV 分析によって見てみたい。パウエル弁護士がトランプ前大統領を代理するさいに言っていたことは、パウエル弁護士の意図とはちがっていた。意図とはちがうことを言っていたのがあるから、言っていたことをそのままうのみにするのではないのがふさわしいことになる。うのみにするのではなくて、言っていることを否定することが正しい見解となる。

 IMV 分析によってパウエル弁護士が裁判のなかで言ったことを見てみられるとすると、こう言えるのがあるかもしれない。まともな人がいるとして、その人が含意することは、パウエル弁護士が意図とはちがうことを言っているおそれがあるのだとうたがう。意図がそのまま言っていることに直結しているとするのではなくて、その二つを切り離すようにして、言っていることをそのまま丸ごとうのみにはしないようにしておく。意図である I と伝達情報である M がちがっているおそれがあることをくみ入れておく。そうした見解である V をもつ。

 トランプ前大統領のことを代理していたのがパウエル弁護士だから、パウエル弁護士に言えることなのであれば、もしかするとトランプ前大統領にもまた言えるのがあるかもしれない。そのあいだには類似性がある。そのことを一般化することができるとすると、代理人や政治家は表象(representation)だから、代理するものそのもの(presentation)ではない。

 パウエル弁護士はトランプ前大統領を代理していたのがあるが、トランプ前大統領は政治家であり、国民を代理していた。パウエル弁護士とトランプ前大統領と国民の三つのものがあるとして、これらの三つはそれぞれにずれている。それぞれがぴったりと合っているのではない。もともとがそれぞれの三つのものは別々のものだから、そこには差異がある。

 パウエル弁護士が言っていたことをそのまま丸ごとうのみにはしないほうがよいのと同じように、表象である政治家の言っていることもまたそのまま丸ごとうのみにはしないようにして、うたがっておくことがあったほうが多少は安全だ。愛国の心をもつのだとはいっても、いざとなったらパウエル弁護士は自分のことがかわいいとなって自分のことを優先させた。これと同じことが政治家にもまた言えるだろう。

 だれしもが自分のことがかわいいのがあるから、いざとなったら自分の身を守ろうとする。愛国よりも自分の身を守ることを優先させる。自分の身を危険にさらそうとはせずに、自分はあくまでも安全なところにいようとする。政治家などが愛国の心を語ることはとうてい信用することができず、意図である I と伝達情報である M が合っているとはいえないから、不信やうたがいをもたざるをえない。国は共同幻想であり想像の共同体によるものだから、全体化された国は虚偽であり、たえず脱全体化されることがいり、国の中にある矛盾をくみ入れるようにして行きたい。

 参照文献 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一

ロシアの大統領のことを殺人者だとアメリカの大統領が言ったこと

 ロシアの大統領は殺人者だ。アメリカのジョー・バイデン大統領はそう言ったのだという。

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ロシアの国内の野党の指導者に毒を盛ったとされている。野党の指導者はロシアの国外で治療を受けていた。治療を受けたあとにロシアの国内に戻ったところ、逮捕されてしまったようである。

 バイデン大統領が言うように、プーチン大統領は殺人者だと言えるのだろうか。殺人者だとバイデン大統領に言われたプーチン大統領は、言い返していた。バイデン大統領の健康をお祈りすると言っていた。第二次世界大戦においてアメリカは日本に原子力爆弾を二発ほど投下したことを人道の罪だとしてプーチン大統領は引き合いに出していた。

 人道の罪となることでいえば、ロシア(旧ソヴィエト連邦)もまたそれをやっているのがある。歴史においてソ連第二次世界大戦の終わりのころに日本の植民地だった満州に質の悪い兵士を送りこんで攻めこんだ。それでソ連の兵士に殺された日本人や、性の被害にあった日本人などが出た。

 第二次世界大戦が終わったあとにソ連は日本の植民地の満州にいた日本人を強制に連行した。ソ連は外地にいた日本人を強制に連行してシベリアに抑留した。それで連れてきた日本人を強制に労働させた。そうとうに悪い環境の中で労働させられたために、命を保てずに死んでしまった人が少なからずいる。

 シベリアに送られた日本人の数は約六〇万人にのぼるとされる。強制に労働している中で死んでしまった日本人の数は少なくとも約六万人にのぼるとされる。

 シベリア抑留をしたことについてロシアは日本にきちんと謝罪をしていない。日本の国はロシアにたいして強く抗議をしてもよいはずだが、それをしていないでいまにいたっている。ロシアが大国であるためか、日本は強く出ることをしていない。日本は大国には弱いが、中くらいや小さい国には強く出るのがあり、国のちがいによって態度を変えているのが情けない。

 アメリカが第二次世界大戦において日本に原爆を二発ほど投下したことははなはだ悪いことではあるが、ロシアもまた戦争のさいに人道の罪と言えるような悪いことをやっているので、アメリカをとがめるだけではなくて、ロシアもまた批判されるべきだろう。日本の国もこれまでの歴史において天皇制がもとでいろいろな悪いことをやってきているから、それもまた批判されることがいる。

 参照文献 『シベリア抑留』御田重宝(おんだしげたか) 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一 『新版 一九四五年八月六日 ヒロシマは語りつづける』伊東壮(たけし)

東京五輪をひらくことと、人類がウイルスにうち勝つこと―政権によるおもて向きのねらいと裏のねらい

 新型コロナウイルス(COVID-19)に人類がうち勝つ。それができたことのあかしとして二〇二一年の夏の東京五輪をひらく。与党である自由民主党菅義偉首相による政権はそう言っている。

 菅首相による政権が言っているように、人類が新型コロナウイルスにうち勝つことのあかしとなることが東京五輪をひらくことに当たるのだろうか。そのことについてを、人類がウイルスにうち勝つことと、東京五輪をひらくこととの二つに分けて見てみたい。

 式のようにして見てみられるとすると、もしも人類がウイルスにうち勝ったのであれば、東京五輪をひらく、といったことになる。この逆(対偶)にあたるのはこういったものになる。もしも東京五輪がひらかれなければ、人類はウイルスにうち勝てなかった。

 式を立ててみたさいに、そこで言われていることのそれぞれの要素を相対化することがなりたつ。式で言われていることを絶対化するのではなくて相対化して見てみられるとすると、人類がウイルスにうち勝つことのあかしがとくに東京五輪であることはいらない。そのほかのことであってもよいはずだ。

 ウイルスにうち勝つとするのは言いすぎなところがあり、ウイルスの感染に適切に対応して行くとか、できるだけウイルスの感染を減らすようにして行く手だてをとって行くとかといったほうがおだやかだ。そうしてみると、ウイルスへの適した手だてと東京五輪をひらくこととはとくに相関するものではない。

 東京五輪を何のためにひらくのかでは、それを人類がウイルスにうち勝ったことを示すために行なうのだとは言い切れそうにない。東京五輪をどのようにひらくのかでは、海外からの観客を受け入れないことが決められた。現実としては国内の観客も受け入れないようにして無観客でやるのがよいとの声が言われている。

 観客を受け入れずにそうとうに制限したかたちで東京五輪をひらくのでは、人類がウイルスにうち勝ったことを示すことにはならないだろう。そうしてみると、東京五輪をいったい何のためにひらくのかは、ほかのちがうことが関わっていることが見てとれる。政権が支持を高めるためのもよおしとしているのがある。

 どのような動機づけ(incentive)によって政権が東京五輪をひらこうとしているのかを見てみられるとすると、人類がウイルスにうち勝ったことを示そうとしているのだとは言えそうにない。ほかの動機づけによって政権は動いているはずだ。国民にとってといったことであるよりは、政権にとって益になることがあることから、東京五輪をひらくことにやっきになっている。

 政治家は表象(representation)であり、国民そのもの(presentation)とぴったりと合っているのではない。国民とのあいだに少なからぬずれがおきるのが政治家だから、東京五輪をひらくことは広く国民のためといったことであるよりも、与党の自民党の政権にとって益になることから、それを何としてでもひらこうとしている。それがあらわになっているところがある。

 おもてに顕在化された形としては、東京五輪をひらくのは、人類がウイルスにうち勝ったあかしといったことが政権によって言われている。顕在化されておもて向きで言われているのは目くらましのようなものであり、ほんとうのねらいは裏の潜在化されたところにある。政権がもつ動機づけとしては、顔の見えない広い国民のために動くことはあまりない。顔の見える一部の特別利益団体だったり、政権の益になったりすることで動く。東京五輪のもよおしもまたその例外ではないだろう。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『ホンモノの思考力 口ぐせで鍛える論理の技術』樋口裕一 『どうする! 依存大国ニッポン 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり)

記憶にありませんと政治家や役人が国会で言ってそれでことをすませてしまってよいのか―政治家や役人の記憶の力

 記憶にありませんと言え。与党である自由民主党総務相は、役人にたいして国会でそう指示したのだという。

 総務相が言うには、役人にたいして、記憶にありませんと言えと国会で指示したことは、記憶にないのだという。総務相が言うところによると、無意識に自分の口からついて出たのだということだ。うかつに口走ったといったことだろうか。

 国会で政治家や役人が記憶にありませんと受け答えすることはふさわしいことなのだろうか。国会で追及を受けているときに、政治家や役人が記憶にありませんと受けこたえをするのは、許されてよいことなのだろうか。

 政治家と役人の記憶の力を比較することができるとすると、政治家よりも役人のほうが記憶の力は確かかもしれない。上級の役人は学歴が高いから、学校の勉強の成績はよいはずであり、ものごとを暗記する力はそれなり以上にあるはずである。

 事前と事後の二つに分けて見てみられるとすると、そもそもの話として、政治家や役人が自分の記憶の力が低いことを事前に自分でわかっていないとならない。それを自分でわかっておいて、何らかの埋め合わせのための工夫をすることがいる。政治家や役人は自分の記憶の力が低いことをみなに知らせるようにして、いざとなったさいに記憶していないおそれがきわめて高いことを知らしめておかないとならない。

 記憶の力が低い政治家や役人にたいして、物理として行動のあとを記録する装置のようなものを身につけさせて、自動で行動が記録されるようにするのはどうだろう。それはやりすぎかもしれないが、もしもそうした自動で行動のあとが記録される装置を記憶の力が低い政治家や役人が身につけていれば、政治における情報の開示や透明性を高めるはたらきをのぞめる。

 いざとなったさいに追及を受ける政治家や役人が言い逃れをできてしまう。記憶にありませんと言って逃げることができてしまう。それができてしまうと政治における情報の開示や透明性がさまたげられる。国民に政治の情報を開示するようにして透明性があるのでないと、有権者である国民の自己実現や自己統治ができなくなる。

 追及を受けていることについて、そのことの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまう。追及を受けていることについての記憶だけがすっぽりと抜け落ちる。すっぽりと記憶が抜け落ちるさいに、どこからどこまでの記憶ができていないのかがある。まるで覚えていないといったことだと、記憶の力がそうとうにたよりない。たとえうっすらとではあったとしても、何らかの断片くらいは覚えているのでも不思議ではない。

 記憶の力がたよりなくて低いのであれば、そのことを政治家や役人は自分で知っていないとならないし、自分の記憶の力を信用することはおかしい。自分の記憶の力が低いのにもかかわらず、それを信用するのであれば、いざとなったさいにそれに裏切られることになる。自分で自分に裏切られる。

 たとえば、使っているパソコンのハードディスクが壊れやすいのであれば、そのハードディスクを信用するべきではないだろう。それまでにハードディスクに溜めておいた情報の蓄積が何らかのさいにふいにぜんぶだめになる見こみが高い。それと同じように、記憶の力が低い政治家や役人は、自分の記憶の力を信用するべきではなくて、それを疑っておくことがいる。

 いざとなったらパソコンのハードディスクを物理の道具であるドリルで破壊することが自民党の政治家によってかつて行なわれた。それとはややちがうが、記憶の力が低いのであれば、それは壊れやすいハードディスクのようなものだから、自分の記憶の力を信用するべきではなく、それを埋め合わせるための何らかの補助の手段をとるようにして、自己管理を行なう。それを行なわないのであれば、記憶するべきことを記憶しないおそれが高くなり、いざとなったさいに自分の記憶の力に裏切られることになる。

 自分の記憶の力の低さを埋め合わせるために補助の手段をとって自己管理をしておくことは、政治家や役人としてなすべきことにあたるものだろう。それをしていないのは怠慢があることになり、不注意があったことになり、よりつっこんで言えば悪意があるおそれがある。誠実さがないことになるから、不信をまねかざるをえず、日本の政治の全体に害を与えることになる。退廃をまねく。きびしく言えるとすればそう言えるのがあるから、日本の政治の全体に与える負の影響は小さくはないかもしれない。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男