国どうしの対立と緊張―リバイアサン(主権国家)としての国と、ビヒモス(世界の部分勢力)としての国

 アメリカとイランが対立している。緊張が高まっていることについて、自制を求める声が国際的に呼びかけられている。

 世界の国の首脳や国際連合の事務総長は、対立による緊張が高まってぶつかり合いが激化しかねないことに危機の認識を示していた。

 一つの国であれば、そこには暴力を独占する政治の権力があることから、内乱によって争い合うのを避けられる。内乱による自然状態(戦争状態)はビヒモスに当たり、主権国家リバイアサンだと言われる。

 もっとものぞましいのは、主権国家であるリバイアサンによるだけではなくて、そこに憲法を尊重する立憲主義がとられているものだ。立憲主義がとられているのでないと、リバイアサンだとはいっても、独裁のあり方になることがある。

 国どうしによる国際社会では、もっとものぞましい立憲主義のあり方ではなくて、リバイアサンですらもなくて、一つの国はビヒモスとなる。ビヒモスが争い合う。それは、国際政府というものがないことによる。

 一つの国においてもっとものぞましいものである立憲主義のあり方が、できれば国際社会においてもとられてほしいものだ。理想としてはそうなってほしいのはあるが、現実にはそうであることはのぞみづらく、その次のリバイアサンですらなくて、いちばんのぞましくないビヒモスどうしのぶつかり合いなのが現状だろう。

 国内的にはともかくとして、対外的には、国というのは危ないところがあって、それは国際社会においては国は(リバイアサンではなくて)ビヒモスであるからだ。国どうしが争い合うことを防ぐためにも、立憲主義によって、政治の権力にしばりをかけることが有効かもしれない。

 歴史において国の政治の権力が暴走して失敗したことは数多いから、それを十分にくみ入れるようにして、まちがった方向に向かってつっ走って行かないようにできればよい。政治の権力をしばるのは、たんに足かせをはめるというだけにとどまらず、まちがった行動をしてしまう前に、改めて見直す機会を色々にもつということでのしばりの働きを見こめる。しばりをとっ払ってしまうと、政治の権力が身軽になるのはあるが、事前に見直す機会が持てなくなりかねない。

 参照文献 『リヴァイアサン長尾龍一 『政治的殺人 テロリズムの周辺』長尾龍一憲法という希望』木村草太