カルロス・ゴーン氏の逮捕と国外への脱出と、海外からの日本への批判―問題をとり上げることの不足

 日本で逮捕されていた日産自動車の元社長のカルロス・ゴーン氏は、日本の国外に脱出することに成功した。

 ゴーン氏の事件では、日本の国外から、日本の司法のあり方にたいして批判の声がいくつか投げかけられている。

 海外からの批判の声について、ラジオ番組の出演者は、残念なことだということを言っていた。海外から批判の声を受ける前に、日本が自分から日本の司法を改めることができていればよかった。自分たちによってそれをすることができていなくて、他の国から批判を受けることになるのはのぞましいことではない。

 ラジオ番組の出演者が言うように、日本が自分たちで問題を見つけて行って、自分たちでそれを改めることができればよい。それができていないことが多いような気がしてならない。問題があるのにもかかわらず放ったらかしにされてしまっていることが少なくない。

 日本の社会の中には、色々な問題があると見なせるのだが、それがあるということが見えづらくなってしまっている。あまりおもて立ってとり上げられることがないし、争点化されることがない。

 かりに問題を穴だと言えるとすると、地面には色々な大中小の穴が空いているのにもかからわず、その穴の上にフタがされてしまっている。フタがされているので、穴を見たくなければ見なくてもすむ。わざわざそれを見ようとするのなら、自分からフタをとり外す労力がかかる。または、何かのきっかけでたまたま偶然にフタを取ることができる機会があることもある。

 穴が無いとか、穴が見えないようにするような情報が流されている。なので、穴があることに気がつきづらいようになっているから、たとえ気がつけない(気がつかない)のだとしても無理はない。やむをえないというか、しかたがないところがある。

 戦前や戦時中の日本では、日本は神の国で、神風が吹くから負けることはないとされていた。国民はそういうふうに信じるようにし向けられていたので、それに逆らうことは難しかった。それに逆らえなくてもしかたがなかった。

 いまの日本の社会でも、戦前や戦時中と若干ではあるが似たところがあって、問題があるのにもかかわらず無いようになってしまっていて、お上には逆らいづらい空気がある。そのために、問題を見つけて行って、それを改めて行くことが十分には行なわれづらい。

 何がよい状態で、何がよくない状態なのかについては、それぞれの人のそれぞれの見なし方があるから、客観にこれだけが正しいというのはないことだろう。いまの日本の社会が、よいといえばよいと言えるのはあるから、それはそれでまちがっているとは言えそうにない。

 民間のトヨタ自動車で行なわれているように、あえて問題を自分から見つけて行くようにするのもありだろう。かりに問題を穴だとすると、日本の社会では、その穴にフタをすることがよしとされがちなのがあるから、その逆に、フタがされているのを見つけて、それをとり外してしまう。それで穴が空いているのをさし示す。

 フタを見つけたりとり払ったりすることが行なわれることが少なくて、おもて立ってとり上げられることがあまり行なわれていない。全体の空気への同調や同化の圧力が強い。そうなると、フタがされたままになって、空気を読むことによって、日本すごいといったことになる。そのすごさは、その裏にある否定の契機が隠ぺいや抹消されていることによっているのだと受けとれるのがある。

 参照文献 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『創造力をみがくヒント』伊藤進