行動してものごとにとり組むことと、それについて批判を投げかけること―行動(実行)と議論

 行動してものごとにとり組んで行くことにこそ値うちがある。行動してものごとにとり組もうとする人に向かってただ批判を投げかけるだけの、評論する人には値うちがない。行動をしないでただ批判だけをしているにすぎない。

 行動してものごとにとり組むことには値うちがあるが、それに批判を投げかけることには値うちがない、と見なすことはふさわしいことなのだろうか。

 行動してものごとにとり組むさいに気をつけないとならないのは、進んで行く道に穴が空いていないかどうかだ。行く先にいくつもの穴が空いていたり、大きな穴があったりするのなら、そこに落ちてしまう危なさがある。

 穴が空いていることに気がつかせるのが、批判をすることの役割としてある。もし批判が投げかけられることがなかったり、批判がないがしろにされたりするのであれば、穴が空いているかどうかを確かめるきっかけを持ちづらい。いったん立ち止まる機会を持ちづらい。

 行動してやろうとすることについてを改めて見れば、やったほうがよいのか、それともやらないほうがよいのかに分かれるとすると、どちらが正しいのかがある。やったほうがよいという派と、やらないほうがよいという派に分かれているのだとすれば、議論の前提条件が共有されていない。

 行動することをよしとする立ち場からすれば、それに批判を投げかけるのは、たんに足を引っぱっているだけのように映る。邪魔をしているだけのように受けとれる。それでぶつかり合いになって紛争になることがある。その紛争を何とかするためには、議論をし合うことが有効だ。

 議論をし合うさいに、お互いによしとすることがちがうのであれば、議論の前提条件が共有されていないことを示す。まだ一致を見ないということを明らかにするようにして、それを議論の机上に乗せないとならない。すでに一致を見たものではないのであれば、まだやるべきなのか、それともやるべきではないのかが、はっきりとしているとは言いがたい。

 反対者や異論を言う人が一人もいないのであればともかく、もしそうした人が少数であってもいるのであれば、その少数の人の言うことが正しいことがないではない。当たっていることがないではない。相対的に多数の方がいついかなるさいにも正しいとは言うことはできないので、少数の人の言うことをくみ入れることがあったほうがのぞましい。

 行動してものごとにとり組む人には値うちがあって、批判を投げかけるだけの人には値うちがないというのは、人にうったえる議論になっているところがある。対人論法のところがある。それを避けるようにして、状況によるちがいに目を向けたい。行動してものごとにとり組むことがよいこともあれば悪いこともあるし、批判を投げかけることがよいこともあればそうではないこともまたある。それは個別の具体の状況によってちがってくることだから、決めつけることはできそうにない。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信