原子力発電所の事故によって生じた汚染水を海洋に放出することが検討されている―汚染水についてを安全視するのと危険視するのとでは、参照点(目線)の高さがちがう

 原子力発電所の事故によって、高濃度の汚染水がたまりつづけている。これを海洋に放出することが探られている。汚染水を海洋に放出するのは、科学的には安全なことであって、このことを危険視するのはいたずらに悪い風評を流すものだという見かたが一部ではとられている。

 原発事故によってたまりつづけている汚染水のことを、政府の関係者は処理水と言っているのだが、これは言葉の言い換えだと見られている。汚染水のことをあたかも安全であるかのように響かせるために処理水と言い換えているのだとしたら、それはのぞましいことだとは言えそうにない。

 汚染水を海洋に放出することが、科学からして安全なのだとして、そのことがはたしてどれくらいの骨太さをもっているのかが肝心だ。科学からして安全だということが、絶対的に客観の真理だと言えるくらいの骨太さをもっているのかは疑うことができる。

 汚染水を処理するために、それを海洋に放出することが、科学的には安全なのだとは言っても、そのさいの安全だということの骨太さは疑うことができるものであって、みんなが無条件に受け入れるべきものだとまでは必ずしも言いがたいものだろう。

 科学的にはこうだということで、その見かたを権威化や教条化して、それを受け入れない人を勉強不足だとして決めつけるのではないようにしたい。勉強不足だと言って決めつける欠如モデルではなくて、対話のやり取りによって互いの了解を探って行く対話モデルによるのがよい。

 科学的には安全なのだから、まちがいなく確かなことであるとして、それにもとづいた手だてをおし進めて、もしそれでじっさいにうまく行くのであればそれはそれで悪いことではないだろう。まちがいなく確かだとまでは言えず、不確かなところがあるのであれば、その不確かさによって万が一まずいことがおきることがある。そのさいに受ける負の打撃があるので、それをないがしろにするのは適切とは言えない。受けるおそれのある負の打撃をくみ入れることがいる。

 原発というのは科学技術による産物だ。原発は電気の発電という大きな利益をもたらすものであるのとともに、とてもやっかいな負の面をもつ。大きな利益があるのとともに、大きな負の面をかかえている。

 原発についてを、科学技術にもとづいているのだから確かに安全だとは言えないのと同じように、原発事故によって生じた汚染水をどう処理するのかについてもまた、科学ということを後ろだてにするからといって、大きな利益だけが見こめる手だてを打てるとは限らない。原発と同じように、大きな利益の後ろには大きな負の面が隠れているかもしれない。利点だけではなくて、予想される欠点があるのをしっかりと確かめてから、ものごとをすすめるのでも遅くはないだろう。急がば回れという観点から見てのものだ。

 参照文献 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香