野党は批判ばかりしている、という状況とは何か―第二(後期)近代における主要な目標と方向性の喪失

 野党は批判ばかりしている。与党のやることの足を引っぱることばかりをする。それで野党は自分たちで具体の案を示さない。そういうことが言われている。

 たしかに、いたずらに足を引っぱるだけに終わるような、批判のための批判のようなことをするのであれば、それは必ずしも生産的なことだとは言えそうにない。

 野党は批判ばかりをするとは言っても、それをもってして悪いのだということはできそうにない。というのも、どこが野党になっても、多かれ少なかれそうなるからだ。野党は反対勢力(オポジション)に当たるのだから、批判をしなければ仕事をしていないことになる。

 野党が批判ばかりするというのは、前景に当たることだ。そのうしろにある後景(背景)には、与党も野党もみなが、うまい答え(案)を出しあぐねているのがあるのではないだろうか。

 たとえ答えとなるものがあったとしても、それは不確実性をまぬがれない。不確実性がある中で、もし失敗がおきたとしたら、その傷は浅いのかや深いのかや、失敗したときの備えがあるのかないのか、を見ないとならない。そういったものを見て行くさいに、批判が投げかけられることがいるのだ。

 空っぽの世界といっぱいの世界がある。空っぽの世界においては、主要な目標を持ちやすい。とりあえずいっぱいにして行こうとか、みなが飢えないようにして行こうということでやって行きやすいのだ。

 空っぽの世界からいっぱいの世界になると、どういう目標や案を持てばよいのかがわかりづらくなる。何か外にあるものに追いついて(キャッチアップして)行けばよいということではなくなる。

 いまは、社会をとり巻く背景として、空っぽの世界からいっぱいの世界になっている。それゆえに、答えや案を示すことが難しくなっているのだ。与党も野党もみなが、答えや案を出すことをしそこねている。なぜそれをしそこねているのかと言うと、創造性が欠けているからである。

 かりに、大きな知と小さな知があるとすれば、与党も野党もみなが、小さな知において争い合っているようなところがある。大きな知にはいたっていない。小さな知というのが、てっとり早い促成のものであるとすれば、大きな知は時間や労力をかけてさぐることがいるものだ。いまは、大きな知をとるための溜(た)めやゆとりとなるものが社会の中で欠けてしまっている。上位(メタ)の視点に立ちづらい。

 野党は批判ばかりするから駄目だというのではなくて、野党も与党もみなが、大きな知にいたれていないことが駄目なのではないだろうか。かりに大きな知というのを、(あまり使いたくない言い方ではあるのだが)国益というふうに言えるとすれば、与党も野党もみなが、国益を損ねることをしている。だれもが、国益につながるようなことができていなくて、有権者をおいてきぼりにしているのではないだろうか。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『老荘思想の心理学』叢小榕(そうしょうよう)編著 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司他 『「定常経済」は可能だ』ハーマン・デイリー 枝廣(えだひろ)淳子(聞き手) 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代日本の政策体系 政策の模倣から創造へ』飯尾潤 『若者は、選挙に行かないせいで、四〇〇〇万円も損してる!? 三五歳くらいまでの政治リテラシー養成講座』森川友義(とものり) 『日本を変える「知」 「二一世紀の教養」を身につける』芹沢一也(せりざわかずや) 荻上チキ編 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原一(しのはらはじめ)