不当な差別だけがよくないものなのか―(中には)してもよい差別はあるのか

 不当な差別はよくない。そう言われているのがあった。

 差別はよくないではなくて、不当な差別はよくないのだとする。そうするので、はたしてよいのだろうか。

 不当な、をつけるのは、しるしをつけることだ。しるしがない差別と、しるしがある差別にすることになる。たとえば、たんなる顔と、きれいな顔がある。たんなる顔はしるしがないけど、きれいな顔はしるしがついている。しるしなしと、しるし付きだ。無徴(むちょう、non-marked)と有徴(ゆうちょう、marked)である。

 いまの日本の憲法を見てみると、差別はだめだとなっている。差別はだめなことであり、法の下の平等がいるのだとされる。社会における平等が、正義であることだ。正義は法の価値の代表のものだ。

 差別はよくないとするのではなくて、不当な差別はよくないのだとするのであれば、不当ではない差別はよいのかといったことになってくる。不当ではない差別はあるのかといった話になる。

 修辞学の型(topica)の、比較からの議論によって見てみると、不当な差別とそれ以外の差別があるのだとしても、どちらもともに差別だ。どちらも差別である点では共通点をもつ。どちらも差別だから、それらを比べることができるけど、どちらも差別なのだから、どちらも悪い。悪さにおいては、どちらも変わりがない。

 類または定義からの議論で見てみると、不当な差別と、それ以外の差別は、どちらも差別の類に当てはまる。類とは、何々ハ何々デアルの、何々に当てはまるものだ。

 不当な差別とそれ以外の差別で、それ以外の差別であるのだとしても、差別の類に当てはまる点では同じだ。類は上位に当たるものであり、その下位には種があり、一つひとつの具体の差別の現象は種だ。

 正義の原則からすれば、同じものは同じようにあつかわないとならない。不当な差別とそれ以外の差別に分けるのだとしても、どちらも差別である点では同じなのだから、同じようにあつかわないとならない。

 ちがうものであれば、ちがうようにあつかってもよくて、そういうあつかいをしても正義の原則に反することにはならない。同じかそれともちがうかがあって、構造や機能においては、同じところがあるのが差別だろう。具体の現象である種として見れば、それぞれにちがいがあるけど、それを抽象(捨象)してみて構造や機能からとらえれば、同じようなあり方になっている。

 いまの日本の憲法でいわれているように、差別はだめなものだから、みんなが平等にあつかわれるようにして行きたい。個人の尊重である。社会における平等である正義がなされるように、(いっきょにはむずかしいかもしれないから)少しずつあり方を改めて行く。あり方を改めて行かないと、差別されている人がそうされたままで固定化されてしまい、悪いあり方が温存されつづけてしまう。

 なかなかなくすことがむずかしいのが差別であり、差別がおきつづけてしまっているのはあるが、人工や人為で構築されているものなのが差別だから、それを変えることがなりたつ。悪く構築されているのを脱構築(deconstruction)して行くことが、日本の社会を少しでもより良くして行くことだろう。いまの日本の憲法を重んじることにつながって行く。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ) 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『できる大人はこう考える』高瀬淳一