政党の長と、正統性―共産党の長に、正統性は十分にあるのか

 共産党は、どのように党の長を選ぶべきなのだろうか。

 党の長に選ばれた人を、よしとする。これは、正統性(legitimacy)が関わるものだ。

 いまの日本共産党の党の長がいて、その長がそれなりに党員からよしとされているのであれば、その長は、正統性をそれなりに持てていることをしめす。正統性がそれなりにあることになる。

 党の長がよしとされるのは、正統性があることをしめしているが、それは自発の服従によっている。自発の服従によって、党の長をよしとしているのだ。

 自発に服従してくれる主体を作る。自分から服従してくれる主体を作ったほうが、正統性を得やすいから、党の長にとっては都合がよい。自発に服従してくれるのにこしたことはない。

 正統性を得るために、党の長はどういうことをやるのかといえば、自発に服従してくれる主体を作って行くことだ。そういう主体を作って行くことによって、自発の服従を調達して行く。

 どういうふうにして自発の服従の契機をえて行くのかといえば、共産党でいえば、われわれの党はこんなによいことをやっている。こんなによいことを言っている。良いことをやったり言ったりしているけど、それをじゃまするじゃま者が内部にいるから、その者を外に追い出す。

 じゃま者だとされて、悪玉化された者は、党の長にたいして、正統性があまり無いのだとしている人だろう。そこまで正統性がない。党の長にたいして、その正当性(rightness)を問いかけているのである。

 悪玉化されて、党の外に追い出された者は、党の長に、自発に服従しなかった。自発に服従する主体ではなかった。党の上に服従をしないで、反抗する人だった。反抗者だったのである。

 党の上に服従をしないで反抗するのは、悪いことなのだろうか。党の外に追い出された反抗者が悪いのかといえば、必ずしもそうとは言い切れそうにない。

 党の上にすなおに服従する、自発の服従の主体は、ぜったいに良いのだとは言い切れないところがある。自発に服従してしまっていて、党の長に正統性を与えてしまっているから、それが悪いことが中にはある。ばあいによっては悪いことがある。

 どういうことを、党の長がねらっているのかといえば、できるだけ党の長にたいして正統性を持ってもらうことだ。服従しないで反抗する主体は、いないほうがよい。党の長にとってはそうなのがあり、自発に服従してくれる主体だけがいてくれれば、それがいちばんよいことである。

 服従しないで反抗するような反抗者は、党の長の正統性を失わせるものだ。党の長にたいする正統性が失われることをおそれているのが、党の長だろう。それをそのままじかに言うことはなくて、すりかえた形にする。

 党の長への正統性が失われるのをおそれているのは言わないで、その代わりに、反抗者を悪玉化する。いかに自分たちの党がよいことをやったり言ったりしているのかを言う。それにもかかわらず、自分たちのじゃまをする者がいるのがあり、それが悪いことなのだとする。

 反抗者が自由にやりたいことをやったり言ったりしてしまうと、党の長への正統性がどんどん失われていってしまう。それを党の長はおそれているのがあるだろう。正統性がいくら失われてもかまわないのだとはなかなかしづらいだろう。いかに正統性を得て、それをいかに保つのかがかぎになるのがあり、そのためには、自発に服従してくれる主体(yes person)ばかりがいたほうがよいのである。

 参照文献 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『法哲学入門』長尾龍一 『メタ思考トレーニング 発想力が飛躍的にアップする三十四問』細谷功(ほそやいさお)