新聞と、正しさ―無びゅう性と、可びゅう性

 新聞に書いてあることは、そのすべてが正しいのだろうか。

 たとえ新聞に書いてあることであったとしても、そのすべてが正しいのだとはいえそうにない。

 あんがい、新聞はまちがっていることが少なくない。思っているよりも、いがいとまちがっていることがある。(ちょっと言いすぎかもしれないが)いがいにまちがっている。

 ぜったいにまちがうことがない無びゅうによるのではなくて、まちがうことがある可びゅうによっているのが新聞だろう。

 大手の新聞であったとしても、まちがうことがある。

 日本共産党の党の新聞である赤旗(あかはた)もまた、まちがうことが絶対にないのだとは言い切れそうにない。赤旗は、無びゅうなのではなくて、可びゅうによるものであり、まちがうことがあるものだろう。まちがっていることがある。

 無びゅうではなくて可びゅうによるのが新聞なのだから、のっているすべての記事を、ぜんぶ頭から丸ごとうのみにするのはふさわしいとは言えそうにない。中には、うのみにはできない記事ものっていることがある。

 何もかも全部がまちがっているのではないけど、中にはまちがっているものがあるのが新聞だろう。色々な記事がのっていて、その中に、まちがっているものが混ざっている見こみがある。正しい記事もあれば、まちがっている記事も中にはあることがある。

 げんみつにその二つを分けることはできづらいが、客観の事実と、主観の意見がある。客観の事実の記事は、長さが短いものであり、離散(digital)だ。主観の意見の記事は、長さが長めのものであり、連続(analog)だ。

 長さが短いものである、離散の記事であれば、相対的にはあんまり主観が入りこみづらい。長さが長めの連続の記事だと、その記事を書いている送り手の主観が入ることがある。

 たんたんと事実を言うのではないのが、長さが長めの連続の記事だ。新聞にそれがのっているさいに、それを受けとるうえで、その記事を書いている送り手がまったくもって正しいことを言っているのだとはかぎらないことがある。

 新聞の記事を書いた送り手がまちがっていたり、送り手が帰属している会社や党がまちがっていたりすることが中にはある。個人である送り手や、集団である会社や党がもつ思想の傾向(ideology)が強く出てしまう。そうしたことがあるから、それに気をつけることがいる。

 参照文献 『頭のよくなる新聞の読み方 こうすれば情報で稼げる』正慶(しょうけい)孝 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『情報政治学講義』高瀬淳一 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『うたがいの神様』千原ジュニア