いつも正しかったのが安倍元首相だったのか―無びゅう性の神話

 いつも判断が正しかった。それが安倍元首相だったのだという。

 国葬において、生きていたときの安倍晋三元首相は、つねに正しい判断をしていたのだと言われたのがあるけど、それは本当のことだったのだろうか。

 認知のゆがみがはたらいていると、安倍元首相がつねに正しい判断をしていたのにちがいないといった確証がもたれてしまう。判断をまちがっていたのが色々にあったのだとしても、そのことが見えなくなってしまう。

 自民党の政治家は、認知のゆがみが大きいので、安倍元首相をよしとするような確証をもつ。肯定性の認知のゆがみによっているので、安倍元首相の負のところが見えなくなってしまう。負のところが見えているけど、見えないふりをしているのかもしれない。

 力(might)と正しさ(right)の点からすると、力が強くてなおかつ正しいことはあまりない。力が強くてしかも正しいことがありえるのなら、そんなに良い話はないけど、現実論としてはそうしたことはきわめておきづらいものだろう。ことわざでいわれる天は二物を与えずといったふうなのが現実だ。力と正しさの二物はなかなか持てない。

 正しさであるよりは、力によっていたのが、生きていたときの安倍元首相だった。力はそうとうに高いのがあったけど、正しさにおいては、そうとうに疑問符がつく。力が優位だったけど、正しさでは劣っていた。力はないけど、そのかわりに正しかったのではなかった。

 力と正しさの二物を持っているのだと見なしてしまうと、権威化することになる。権威化されていたのが安倍元首相だったけど、それだと正しい見なし方にはならないから、うたがわないとならない。二物を持たず、力しか持っていないのだとして、権力者をうたがうようにすると、どちらかといえば正しい見かたになりやすい。

 人間についてをどのように定義づけできるのかといえば、まちがいをしでかすものだとできる。まちがわない人間はいない。合理性の限界をもっているのがある。限定された合理性しかもっていないから、たとえ自分ではまちがっていないのだと見なしていても、よくよく見てみるとどこかにまちがいがあることが多い。見直しが欠かせない。

 どこかにまちがいがあるのだとする仮説を自分にたいしてとってみると、役に立つことが少なくない。その仮説を立ててみて、それを証明しようと自分でやってみると、それが証明されることになり、自分のまちがいが見つかることになる。

 他の人にはきびしく、自分には甘くなりがちだから、自分はまちがっているとする仮説を立ててみると役に立つことが多い。自分にはなかなかきびしくできないから、それを補うために、自分がいやな他人になってみる。

 むかっとくるような(自分にとって)いやな他人になってみて、それで自分で自分を見てみると、自分のまちがいを見つけやすい。むかっとはするけど、いやな他人の自分への冷たさが、受けとめ方によっては自分にとって薬になる。

 ぜったいにまちがうことがないあり方は、日本の役人による無びゅう主義だ。役人は無びゅう主義によることがあるけど、それは良いあり方ではない。人間はまちがいをしでかすものだから、可びゅう主義によることがいる。

 無びゅう主義によっていたのが安倍元首相だったのがあり、それは日本の役人のあり方と同じなのがあった。まちがうことがないのだとする、良くないあり方をしていたのが安倍元首相だったのがある。

 反証(否定)されることがないのは、あり方として良いものではない。どのようなものであったとしても、反証の可能性を持つことがのぞましい。反証される可能性をもつようにしないと、まっとうなあり方だとはいえなくなる。

 国葬において、生きていたときの安倍元首相がいつも正しい判断をしていたのだと、自民党の政治家は言っていたけど、その見解は正しいものだとはいえないものである。言ったとたんに、すかさずに反証されるようなことを、自民党の政治家は言ったことになる。

 天気の予報でいえば、今日は晴れると予報して、予報をしたとたんに雨がふるようなものなのが、国葬において言われていたことだった。安倍元首相は、生きていたときに、(天気の予報でいえば)つねに天気の予報を正確にやっていて、いっさいはずれたことがなくて、一〇割の確率で正しい予報だったとするのは言いすぎだ。それは言いすぎであり、そうとうに予報をはずしていたものだろう。きびしく見れば、二割か三割くらいの確率でしか当たらなかったものだろう。

 野球でいえば、つねに安打を一〇割の確率で打つ打者だったのが、生きていたときの安倍元首相だったのだとするようなものである。たとえよくても、三割くらい安打を打てればかなり良い打者なのだから、あとの七割は失敗しているのがあり、安倍元首相もたとえ良くてもそれくらいなものだっただろう。七割以上は失敗しているけど、その失敗はぜんぶなかったことにされているのである。失敗の隠ぺいである。

 あらゆるものは仮説にとどまるのがあるから、一〇割の正しさだとしてしまうと非科学におちいりやすい。生きていたときの安倍元首相が一〇割の正しさだったとするのは非科学によるものだろう。仮説としては、基礎づけたりしたて上げたりしないようにして、一〇割の正しさだったとか、一〇割まちがっていたとかしないほうが、科学による見かたになる。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『正しく考えるために』岩崎武雄 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫法哲学入門』長尾龍一 『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ』菊池聡(さとる) 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき)