日本にとっての敵の国があり、敵の国の基地があることの意味論―敵の国の有無とその存在論

 日本は、国を守るために、攻撃する力を持つべきなのだろうか。敵となる国の基地を攻撃する力を日本が持ったほうが、日本をより守れるようになるのだろうか。

 もしかしたらまとを外しているかもしれないが、敵となる国つまり敵の基地と見なせるのがあるかもしれない。敵つまり敵の基地だと見なせるさいに、それをかくある(is)の点でとらえてみたい。

 かくあるの点で見てみられるとすると、敵がいるのや、敵の基地があるのをとり上げることができる。基地を持った(基地を持っている)敵の国があることになる。

 大きな分け方では、有るのと無いのとに分けられる。有るのだったら、基地を持った敵の国があることだ。無いことだったら、基地を持った敵の国が無い。または基地を持っていない敵の国がある。

 どういうことが日本の国にはできるのかの、可能さ(can)の点で見てみると、いま日本は敵の国の基地を攻撃する力を持とうとしている。基地を攻撃することができるようにしようとしているのである。

 どういうことが日本の国にはできないのかでは、有るのと無いのとで、敵の国を無いようにすることはできない。敵の国があるとして、そうした国がある(is)ことは否定できず、そうした国を無い(is not)にすることは日本にはできないことだろう。

 可能性の点では、もしも日本が攻撃する力を持てば、敵の国の基地を攻撃することはできるかもしれない。不可能性の点では、有るのと無いのとで、敵の国があるとしか言いようがなくて、そうした国を無いようにするのは不可能だ。

 可能性であるよりも、不可能性の点に目を向けてみると、日本には、日本にとって敵に当たる国を無くすことはできない。現実論としては、敵に当たる国があるのだととらえざるをえない。

 日本にとって味方の国があるのとともに、それと同じような話として、敵となる国がもしもあるのであれば、それが有るのだと言わざるをえない(無いのだと言うわけには行かない)。敵となる国があることをくみ入れて、それをふまえながら、敵となる国と関わり合いをして、交通をして行く。外交の対話をしっかりとやって行く。

 じっさいに敵となる国の基地を攻撃するのではないとしても、いざとなったら基地を攻撃することができるようにする。日本はそうしようとしているけど、可能性として、日本が敵の国の基地を攻撃できるようになったとしても、そうだからといって、そうした敵の国が、敵の国でなくなるわけではない。敵の国が有ったのが、無くなるのでもない。

 日本が攻撃の力を持ったとしても、敵の国がそう(敵の国のまま)でありつづけることには変わりがなさそうだ。じっさいにそれを使わずに、持っているだけだとして、日本が攻撃の力を持てば、敵の国が友好な国に変わってくれるのではないだろうし、味方の国になってくれるのでもないだろう。

 日本がやるべきことは、敵の基地を攻撃する力をもって、いざとなったらそれを攻撃できるようにすることだとはいえそうにない。どういうことをやるべきかといえば、集団安全保障のあり方によって、そもそも日本にとっての敵(敵の国)を作らないようにして行く。どういったさいにも、これが日本にとっての敵の国だ、とはしないようにして行く。

 民主主義によるのであれば、国どうしで、ある国にとっての敵の国を作らないですむ。民主主義では、敵はいないのがある。よき好敵手(rival、competitor)はいても、やっつけるものとしての敵はいないのであるのが民主主義だ。やっつけるべきものとしての敵を作ってしまうと、民主主義ではなくなってしまう。韓国の政治家の金大中(きむでじゅん)氏はそう言う。(闘技の)民主主義では、闘技の関係(agonism)はあっても、敵対の関係(antagonism)はないのをしめす。

 かりに敵の国があるのだとしても、それが有るのを、無いようにすることはできないのだから、あとは外交でやって行く。自国と他国で、国どうしの交通をしっかりとやって行く。おもてなしの客むかえ(hospitality)をして行く。味方にせよ、敵にせよ、それらの国を、どのように客むかえしていって、いかにきちんと交通することができるのかが、日本の国の安全にとっては意味があることだろう。

 参照文献 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『十三歳からの日本外交 それって、関係あるの!?』孫崎享(まごさきうける) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦