五輪と日本の報道のまずさ―国家のイデオロギー装置としての報道機関

 東京都で夏にひらかれていた五輪が終わった。つぎにはパラリンピックが予定されている。五輪は終わったが、そこでかいま見ることができたこととはいったい何だろうか。いろいろにある中で、報道機関が国家のイデオロギー装置であることがむき出しになった。

 理想論としては、報道機関は五輪に熱を入れすぎないようにするべきだった。熱と冷のつり合いをとるべきだった。

 現実論としては、ほとんどの報道機関は五輪に熱を入れるだけで、冷が欠けていた。熱と冷との二つがあることでつり合いがとれるようになるが、いちじるしくつり合いを欠くことになったのである。

 熱を入れながら冷も行なうのだと互いに対立し合う。熱を入れるのなら熱だけのほうがわかりやすいので、それと対立するものである冷は排除されることになる。冷がわきに追いやられて排除される形で熱が入れられた。わきに追いやられて辺境に置かれたのが冷であり、中心化や全体化されたのが熱である。いわば冷は毒で熱は薬であり、毒と薬は反転させられるもの(pharmakon)である。

 なぜ報道機関は熱を入れるだけになったのかといえば、報道機関が自分たちで思考をしていないからである。自分たちで思考をしないで、ただおきたことだけを報道によってたれ流す。こういうことがおきたといったことを報道するだけに終わる。

 熱だけが高まって冷がいちじるしく欠けていたのがあるが、そのことによって五輪は一時の盛り上がりがおきただけになった。熱だけによっていて冷が欠けていると弱いものにならざるをえない。報道機関は五輪についてを盛り上げることには成功したかもしれないが、それと同時に冷が欠けていることによって五輪が弱いものになったのがある。

 甘やかすことによって腐らせるのがあるが、報道機関はもっと五輪についてをきびしく報じていれば、甘やかすことを防げた。甘やかすよりもきびしく報じることの必要性のほうが高かったが、甘やかすことの誘因(incentive)に勝つことができなかった。甘えがおきることになったのがある。きびしさを欠く。いろいろな腐敗がおきている。

 いったん五輪がひらかれて、はじまってしまったら、なかなかそれにはあらがいづらい。ひとたびはじまってしまったらあらがいづらいのはあるが、できればつねに科学のゆとりをもつようにすることがいる。多くの報道機関は科学のゆとりを持てなかったので、五輪に熱を入れることは行なわれたが、冷が欠けることになった。

 もともと報道機関は国家のイデオロギー装置であり、国家の肩を持ちやすい。ろこつにそれが出たのが五輪の報道だ。国家の政治の権力が暴走してまちがった方向につっ走って行かないようにつねに目を光らせることがいるのが報道機関だが、それが欠けることになった。

 国家が暴走してまちがった方向につっ走って行かないようにするためには、報道機関は熱だけではなくて冷をもつことがいる。日本の報道機関は熱と冷とが不つり合いになっていて、冷がどんどん少なくなっている。熱の方向にどんどんかたむいて行っている。五輪の報道ではとりわけそれがひどくあらわれ出た。日ごろから熱が多くて冷が少ないあり方になっているのが、より極端な形になった。

 ふつうのときであればともかくとして、いまは新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっている。それを押して無理やりにひらいたのが五輪だ。そこにあらわれ出ているのは、五輪にまつわる色々なおかしさだ。いろいろなおかしさがあるのだから、熱ではなくて冷を持つことの必要性が高い。その中で熱を入れることはあったが冷を欠いていたのがある。そこに日本の国や日本の報道機関がかかえている悪さや弱点がある。上からの情報の統制がおきてしまっていて、情報の民主化ができていない。

 参照文献 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代思想を読む事典』今村仁司