ウイルスの感染の広がりと、東西の言葉や文化の文脈性の高低

 その地域の言葉と文化がある。そのそれぞれに高文脈(high context)のものと低文脈(low context)のものがある。アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホール氏はそう言う。

 アメリカは言葉が高文脈で文化は低文脈だ。西洋語は言葉の情報の明示性が高い。文化は個人や自我の主体性が高く、空気を読むのではない。

 日本は言葉が低文脈で文化は高文脈だ。日本語は言葉の情報の明示性が低い。言うことを省略しても伝わる。省略の文化であり、縮みの文化と言われる。文化において空気を読んだり和によったりするのが強い。

 言葉と文化において、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染の対応のしかたを見てみられるとするとどういったことが言えるだろうか。そこから言えることは、ウイルスをしっかりと対象化しようとしているかどうかがあげられる。

 ウイルスがどのようなものなのかをしっかりと対象化しようとしているのが西洋には見られる。それとはちがって日本はしっかりと対象化しようとしているとはいえそうにない。

 日本は言葉が低文脈なので、言葉によって説明して行こうとするのが弱い。政治で説明責任(accountability)を果たさないことが多い。説明の責任を果たさないで、文化が高文脈なのに寄りかかろうとする。空気を読ませて、和のしばりをかける。

 西洋ではウイルスを対象化しようとして、細かいところまでくわしく見て行く。それが行なわれているところがあるかもしれない。そのいっぽうで日本ではウイルスをしっかりと対象化しようとするのが弱く、くわしく見て行こうとしない。省略の文化が悪くはたらく。とらえ方が総合で大ざっぱになる。

 西洋は言葉が高文脈だから、言葉による分節化を行なって行く。言葉によって分節化して、ものごとを明らかにしていって、説明できる形にして行く。日本ではそれが十分ではないところがあり、低文脈な言葉なために、省略しようとする。言葉によって分節化しようとするところが足りなくて、わかったつもりになりやすい。

 わかったつもりになるのを防ぐには、言葉が高文脈であることが益にはたらく。いろいろなとることができる仮説をとってみて、複数の仮説のうちでどれが正しいのかを見て行く。科学のゆとりをもつようにして、わかったつもりにおちいるのを防ぐ。

 日本は低文脈の言葉だから、わかったつもりになる危なさがある。たった一つの仮説を絶対化してしまう。科学のゆとりを欠く。空気を読んだり和のしばりによったりする高文脈の文化がはたらくことで、集団思考(groupthink)になりやすい。

 世界のなかで日本は必ずしもウイルスの感染の対応が十分にできていず、成績が優秀であるとは言いがたい。世界のなかでは成績が劣っているのが日本のウイルスの対応のしかただ。世界のなかで日本が劣ってしまっているのは、日本が低文脈な言葉で高文脈な文化であることがわざわいしているおそれがある。そこを改めるようにして、少しでも政治の創造性を高めることがあったらよい。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『「縮み」志向の日本人』李御寧(イー・オリョン)