週刊文春はすぐれているいっぽうで、新聞は劣っていて駄目なのか

 週刊文春は、政治の時の政権を批判するようなスクープを多く行なっている。文春はかなりがんばっている。それにひきかえ新聞社は見劣りがする。そう言われているのをツイッターのツイートで見かけた。

 文春に比べると大手の新聞は駄目だと言われがちだ。報道においてスクープを多く行なえている文春はすぐれていて、そのいっぽうで新聞はそれができていないことが多いので駄目だと言われるのは、当たっているのだろうか。

 たしかに、新聞に比べると文春はすぐれているところがあると言えるのがあるかもしれない。その点について、修辞学の議論の型(topica、topos)で言われる比較からの議論と、動機づけ(incentive)の持ち方やわいざつさややじ馬根性の度合いのちがいなどによって見てみられそうだ。

 文春と新聞とを比較するさいには、類似性と差異の点から見てみられる。報道を行なう点ではたがいに類似性があるが、さまざまなちがいがあることも確かだ。ちがいとしては、文春は週刊だけど、新聞は日刊なのがある。出す期間の長さがちがう。期間の長さがちがうことによって、記事の中であつかうものも変わってくるだろう。

 動機づけの持ち方のちがいでは、よい記事をのせればそれだけ売り上げにはね返るところが文春にはありそうだ。売り上げにはね返るところがあって、売り抜けてしまうことができなくはないから、動機づけを高めやすい。それとはちがって新聞はよい記事を書いたとしてもそれがすぐには売り上げにははね返らないだろうから、あまり動機づけにはつながりづらい。

 ものごとを比較するさいには、たがいにちがいがあって次元が異なっているのならいちがいには比べられなくなる。文春と新聞とではさまざまなちがいがあるから、優と劣を一方的には決めつけることはできないのがあるかもしれない。それぞれの持ち場や役回りといったところがある。文春ができることは新聞がやらず、新聞がやらないことを文春がやる、といったところがあるとすると、相互作用がはたらくようなところがある。

 新聞がかかえている欠点についてを見てみられるとすると、記者クラブ制度があることがあげられる。記者クラブ制度があることがわざわいしている。上にいる政治の時の政権や役所から情報が流れてくるのがあるから、それをのせれば記事ができるのがあり、それをそのまま記事にすることによって戦前や戦時中の大本営発表のようになりやすい。

 よい意味でのわい雑さややじ馬根性が文春にはあるのだとすると、新聞にはそれが欠けているところがあるのはいなめない。文春にはよい意味でのわい雑さややじ馬根性があって、それがスクープを行なうさいによくはたらいているものだろう。

 新聞の記事にはあるていどより以上の責任や信用がともなわないとならないのがあるから、文春と同じようなわい雑さややじ馬根性は持ちづらいだろう。その中でスクープを多く行なうためにわい雑さややじ馬根性をもつようにするあり方を文春に少しは見習ってもよいのはあるかもしれない。とりわけ政治の時の権力の言うことをすなおに聞きがちな保守性が強い新聞社には、批判精神が欠けているのがあるから、文春を見習う必要が少なからずあるだろう。

 参照文献 『丸谷才一と十六人の東京ジャーナリズム大批判』丸谷才一記者クラブって何だ!?』村上玄一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信