NHK の動画と情報の操作―視聴者を意図して操作しようとしている情報統制のうたがい

 NHK がつくったアニメーションの動画に、海外の報道機関などから批判があがった。それで NHK は動画を削除して謝罪した。

 NHK がつくった動画は、アメリカでおきている黒人への差別に抗議する運動をあらわしたものだった。動画の内容におかしいところがあったために、海外の報道機関などがとり上げて、批判を投げかけている。

 NHK はアニメーションの動画をつくるさいにどういう点に気をつけるべきだったのだろうか。その気をつけるべき点としては、情報の操作をしないようにするのがある。

 情報の操作になりやすいもととしては、日本では現実主義がとられないことがあることがあげられる。西洋では現実主義に重みが置かれやすい。西洋の絵画や映画などの文化では、写実主義の伝統がある。思想では実在論(realism)や唯物論がある。西洋とはちがい日本では虚構のネタのようにものごとがあつかわれることが少なくない。ネタとしてあつかわれると、虚実の皮膜のようになり、虚でもあり実でもあるとなることで、地に足のついた現実主義から離れて行く。漫画(戯画)化されることになる。

 情報の操作をできるだけしないようにすることへの配慮があまりにも欠けていたために、NHK がつくった動画は批判を受けることになった。配慮が欠けているだけではなく、もともとそれを持とうという気がなく、視聴者をいかに情報によって操作しようかというふうに動いてしまっている。

 たまたまよくない動画が例外としてつくられてしまったのではなく、そこに映し出されているのは NHK の負の体質や本質だというのがある。視聴者に本当のことを知らせようとはしない。肝心なことを隠そうとする思わくをもつ。客観の事実を重んじない。ものごとの優先順位づけがおかしい。客観に近い情報をいかに視聴者に正確に伝えるかへの努力がおろそかにされている。

 NHK が組織としてもっている価値と、(一部の)視聴者である国民がもつ価値とのあいだにずれがある。その価値のずれがあることが放ったらかしにされたままだ。価値の偏りが大きい。そこからずれがどんどんひどくなって、海外の報道機関から批判を受けるようなまちがった内容の動画がつくられることにいたった。

 NHK が組織としてもつ価値は、ある一定の国民がもつ価値とは合っているのだろうし、時の権力者の価値とも合っているものだろうが、それによって失ってしまっているものが小さくない。時の権力者とのあいだの距離が開かなくなり、距離がくっつきすぎてしまう。距離をもってつき放して対象化することができていない。もともと放送や通信は放送法があるために時の権力者の介入を受けやすく、干渉されやすいが、そのうえになおさら独立性が保たれなくなり、ひずみやゆがみが深まって行く。戦前や戦時中の大本営発表のようになる。

 視聴者を情報によって操作しようとするのではなく、それをできるだけしないようにして、客観に近い情報を視聴者に伝えようと少しくらいは努力してみてはどうだろうか。その努力をすることが行なわれず、怠けているのであれば、情報の操作が行なわれることに歯止めがかかりづらい。海外の報道機関から批判を受けるようなまちがった内容の動画がこれからもつくられることになる。おかしな形で偏向した情報が流されることになる。

 強い危機の意識をもつようにして、視聴者にたいして情報の操作を行なわないように努めて行くようにするのでないと、組織としての腐敗が止まらなくなる。どんどん腐敗して行く。きびしく言えばそう言えるのがある。かんたんにぼろが出るようなやわなものを労力をかけてまでしてつくって平気で視聴者に流すようであっては、公共の電波をにない、なおかつ視聴者から視聴料をとることの正当性があるとは見なしづらい。

 参照文献 『情報操作のトリック その歴史と方法』川上和久 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『「電車男」は誰なのか “ネタ化”するコミュニケーション』鈴木淳史(あつふみ)