個人にたいする風刺の絵と、お笑いの楽しませるのと攻撃や否定の二つのはたらき

 冗談とは、みんなが楽しめるものを言う。ツイッターのツイートではそう言われているのを見かけた。

 冗談はお笑いに関わるものだが、お笑いはよいところだけによっているのだと言えるのだろうか。よいところがあるのはよいことだが、それだけではなく悪いところもまたあることを無視しづらい。よいところはみんなを楽しませるところだが、悪いところは人を攻撃することがある。人を攻撃して否定することにはたらく。肯定と否定の二つの面をもつ。

 性の被害を受けたとされる人を否定的に描いた絵が裁判でうったえられることになった。この絵は分類でいうと風刺のようなところがあり、風刺の絵はお笑いでいうと攻撃のはたらきがあるから、危険性をふくむ。よくはたらくこともあるが、悪くするときつい内容のものになりがちだ。

 冗談のようにみんなが楽しめる方向にもって行くのがお笑いとしてはのぞましいのがあるが、それとともにお笑いではものごとを相対化することの手だてにもできるのがある。

 お笑いということでは、風刺の絵を描いて個人を攻撃してしまうと、一面性によってしまうことがある。それだといくつもの視点や文脈をとることにはつながらない。攻撃や否定にかたよってしまう。それを避けるためには、いくつもの視点や文脈によるようにして、相対化するようにする。そのほうが危険性は少ない。

 一面性によるだけで、それによって個人を攻撃するような風刺の絵を描いてしまうと、まちがって個人の像を構築してしまうことがある。まちがった像が構築されるのが絶対化されるとまずいから、それを相対化するようにしたい。まちがった虚像を絶対化してしまうと、虚像を実像だととりちがえることになる。

 一面性によるのではなく、いくつもの視点や文脈によって多面性をとらえるようにすれば、構築を和らげることがなりたつ。そうできたほうがどちらかといえばみんなが楽しめるお笑いになりやすいだろうし、危険性を多少は少なくできる。

 一か〇かや白か黒かの二分法におちいるのではないようにできるとすると、一つの視点や文脈がまったく正しいかまったくまちがっているかとはなりづらい。完全に正しいか完全にまちがっているかとはなりづらく、ていどのちがいによる。表現されたことがまったく正しい真実そのものを示しているとは言い切れないから、一つの視点や文脈だけで割り切ることができないことは少なくない。

 一つの視点や文脈だけによるのではなく、いくつもの視点や文脈によるようにすれば、テクストとしてものごとをとらえることがなりたつ。さまざまな角度からとらえるようにすれば、色々な見なし方ができることをくみ入れやすい。テクストとしてものごとをとらえるようにすることができれば、たった一つだけの視点や文脈を絶対化することを避けやすく、危険性を分散(リスクヘッジ)させられる。

 お笑いの効用では、一面性におちいりすぎるのを避けて、多面性によるようにものごとを複数化や相対化することに役に立つ。その効用を生かさないで、攻撃や否定のはたらきだけによってしまうと危なさがおきてくることがあるから、その点には気をつけて行きたいものだ。

 参照文献 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『ユーモア革命』阿刀田高(あとうだたかし) 『デリダ なぜ「脱-構築」は正義なのか』斎藤慶典(よしみち) 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『滑稽の研究』田河水泡(すいほう)