朝鮮学校にだけマスクが配られなかったそうである

 さいたま市では、学校の生徒にマスクが配られたが、朝鮮学校には配られなかった。そのわけとして市は転売のおそれがあるからだとしている。

 朝鮮学校北朝鮮とのつながりがあるから、そこに関わっている生徒や教師は信用がならないというのが市の判断なのだろうか。

 ほかの学校の生徒にはマスクを配って、朝鮮学校にだけは配らないのであれば、それをきちんと正当化することができるだけの理由がなければならない。それがなかったり十分ではないものだったりするのであれば、差別になってしまう。

 同じものには同じあつかいをするべきだというのが、正義や公平の原則から言うことができる。一般の学校と朝鮮学校とはちがうのだとしても、たんにちがいがあるだけではなくて同じところもあるのだから、できるだけわけへだてのないあつかいをしてほしいものである。

 たとえ一般の学校と朝鮮学校にはちがいがあるのだとしても、そこに強い線引きを引いてしまうと、日本の国家主義をいたずらに強めてしまうことになりかねない。それでなくても変な形で国家主義が強まってしまっているのだから、自民族中心主義になりすぎないようにすることがいるし、日本をもっと脱中心化して相対化することがあってもよい。

 たとえちがいがあるのだからといって、そのちがいがあることをもってして、偏見を強める方向にはなるべく行かないようにして行きたい。独断におちいるのではないようにして、あまり確かではないあやふやなことで一方的に決めつけてしまわずに、日本が優や正で隣国が劣や誤といった一つの視点だけではなくほかの色々な視点によって見て行きたいものである。

 ちがいがあることから、それによって排除されてしまうのだと、包摂がさまたげられることがおきてしまいかねない。かりに朝鮮学校ということをカッコに入れられるとすると、そこに属しているからといって、みんなが一色に染まっているとはかぎらず、一人ひとりはふつうの社会の中の人間とさしてちがわないのだとおしはかれる。それぞれの個人が(個人ということをもってして)尊重されるべきだという点からすれば、できるだけ多くの個人が排除されずに包摂されるべきだろう。

 二〇二〇年には東京都で五輪が開かれるのが予定されていて、そこではおもてなしが言われている。そのおもてなしの精神を朝鮮学校の生徒や関係者にたいしてもってもよいものだろう。新型コロナウイルスへの感染がおきていて、その中で困っているのは同じなのだから、できる中でできるだけお互いに助け合うことがあればよい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦