二〇二〇年の東京五輪と日本の国の威信

 二〇二〇年に開かれる予定の東京五輪には、日本の国の威信がかかっている。どうしてもやらなければならない。このまま五輪に向けて全力を注いでつき進むのがよい。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 五輪を開くことをいちばん大事なことだとしてしまうと、国家が第一になってしまい、個人がおろそかになることがおきてしまいかねない。いちばん大事なのは国民であって、国家なのではないだろう。

 国家が目的としてあって、その手段として国民があるのではないから、国家の公が肥大化しすぎてしまわないようにできればよい。個人が尊重されるようであってほしいものだ。

 国民にたいしてできるだけ透明性のある情報が知らされるようにして、国民の知る権利が満たされるようにする。それで国民の自己実現と自己統治ができるようにする。そうすることができれば開かれたあり方になるが、そうではなくて、国の威信ということで閉じたあり方になってしまい、神話のようなものが持ち出されるのだとまちがった国の意思決定が行なわれかねない。そこには気をつけたいものである。

 参照文献 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『まっこう勝負!』橋下徹