仮定の質問についての質問―仮定の質問には答えなくてもよいのか

 仮定の質問には答えられない。いまの首相による政権の官房長官などは、記者や野党の政治家が投げかける質問にそう言う。これを改めて見てみたい。

 場合分けをしてみることができるとすると、そこには少なからぬ反例を見つけられる。仮定の質問であったとしても、そのすべてに答えていないのではなくて、中には(気がつかないうちに)答えているものもある。なので、仮定の質問であれば、すべてに答えていないのではない(中には答えているものもある)から、矛盾していることになる。

 仮定の質問であるからといって、そのすべてが答えることがいらないものであるとは限らないものだろう。そのすべてに答えなければならないかどうかはわからないが、中には答えるものがいるものがあるのであって、それは状況によってちがう。

 範ちゅうと価値で分けて見られるとすると、仮定の質問の範ちゅうに属するからといって、そのすべてに答えるだけの価値がないとは言い切れず、中には答える価値があるものを少なからず含む。このさいの価値とは、国民から見てということである。

 場合分けをしてみると、仮定の質問であったとしても、その中にはよい質問もあれば、よくない質問もある。仮定の質問ではなかったとしても、よい質問もあればよくない質問もある。このうちで、仮定の質問であってなおかつよい質問があることがあるから、それには答えることがいる。このさいのよい質問とは、国民から見てのものである。

 いまの首相による政権の政治家は、記者や野党の政治家から仮定の質問をたずねられたさいに、それをふさわしく評価づけできているとは見なしづらい。まちがって評価づけしていることが少なくない。けっこうかたよりがあるし、不備があるのが目だつ。

 仮定の質問であることが、答えない(答えなくてよい)ことをまちがいなく含意しているのだとは言えそうにない。含意しているのであれば、それが十分条件になっていて、それをもってして、こうだからこうだというのが自動で導かれることをさす。自動で導かれるかといえば、そこまでは言えないので、仮定の質問であるからといって、その範ちゅうには色々な価値を含むものがあると見るのがふさわしい。

 とるに足りない質問なのであれば、答えても答えなくてもよいだろうが、それなりに重要なものなのであれば、たんに仮定の質問だからといってむやみに切り捨ててしまうのはまちがいのもとだ。むやみに切り捨ててしまっているのは、いまの首相による政権にていねいさが欠けていて、いい加減さやずさんさがあるからではないだろうか。

 参照文献 『実践ロジカル・シンキング入門 日本語論理トレーニング』野内良三(のうちりょうぞう) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一