きちんとした質疑応答の場にはなっていない、政権による記者会見―きびしく見れば記者会見や議論のやり取りとして成立していない

 仮定の質問には答えられない。自由民主党菅義偉首相は、記者会見で記者からの質問にそう言っていた。記者会見の中での記者からの質問が仮定のものであるとして、それには答えられない(答えない)のだと菅首相はしていた。菅首相のこの応じかたはふさわしいものなのだろうか。

 菅首相の記者会見における応じかたにまずさがあるのは、政権による記者会見がきちんとした質疑応答の場にはなっていないからである。政権による記者会見がもしもきちんとした質疑応答の場になっているのであれば、仮定のことを記者が質問したさいに首相はそれにまともに受けこたえるはずである。仮定のことを記者が質問したからといってそのことをもってして首相がそれを頭から退けることはない。

 菅首相が記者からの仮定の質問を頭から退けたのにたいして、その質問をした記者が満足するのだとは見なしづらい。満足できないことになる。そうなるのは、菅首相が質問されたことにまともに答えようとしていないからである。きちんとした受けこたえを首相から得られていないのだから、質問をした記者は満足できないことになるが、無理やりに満足させられてしまう。空気を読まされてそんたくさせられてしまう。お上への服従や同調の圧が場の中にはたらいているからである。理ではなくて和によってしまっている。

 ただたんに菅首相が何かを口にすればそれで記者からの質問に受けこたえたことになってしまっている。それだときちんとした質疑応答になっているとは言えそうにない。きちんとした質疑応答をするのであれば、ただたんに菅首相が何かを口から言っただけでそれをもってして記者からの質問に受けこたえたことにしてはいけない。

 菅首相が何かを口から言ったとして、それを言いっぱなしにするのはよくない。言いっぱなしにするのではなくて、質問をした記者が満足したかどうかをたずねなければならない。それを確かめることがいる。質問をした記者が満足していないのであれば、菅首相がまともに質問に受けこたえられていないおそれが高い。お上が答えるのに苦しむのはすぐれた質問である見こみが低くない。

 仮定のことには答えられないとする菅首相の受けこたえが記者会見の中で通ってしまう。それが記者会見の中で通ってしまい、言いっぱなしになってしまうことが意味しているのは、政権による記者会見があるべきあり方にはなっていないことをしめす。あるべきあり方にもしもなっているのであれば、仮定のことを記者が質問してそれが頭から退けられるはずがない。

 過去と現在と未来の時制でいうと、仮定のことを質問してはならないのだと、未来の時制を使ってはいけないといったことになりかねない。未来の時制のことを言うことが禁じられる理由がよくわからない。未来の時制は何かを言うさいの機能の重要な一つなのだから、それをお上が一方的に禁じるのは正当性があることだとは言えそうにない。

 ただたんに現在だけに安住しているのではなくて、過去と未来を見るのが人間のありようだ。それがよくはたらくこともあれば悪くはたらくこともある。現在の時点に気を集中させたほうがよいときもある。それはあるもののただたんに現在だけに安住しているのだと政治はなりたちづらい。政治においては現在の時点はむしろ相対化したほうがよいことが少なくないだろう。現在の時点に埋没しすぎずにそこから距離をとって対象化するようにする。

 現在だけを見てそれを絶対化するのではなくて、過去をきちんとふり返って行く。未来をきちんと見すえて行く。過去への後望と未来への前望がともにいる。政治家のビスマルクは、政治は可能性の芸術だと言ったとされる。可能性とはそうであるかもしれない(そうでないかもしれない)ことであり、時制では未来形にあたり、仮定のことだろう。

 日本語で色々に言うことができる中の重要な機能の一つをお上が勝手に一方的に禁じる権利はないだろう。未来の時制のことを質問されたら、それに答える義務がお上には原則としてあるのではないだろうか。その逆に原則として受けこたえないとするのは首をかしげざるをえない。その中にはまれには例外はあるかもしれないが。

 参照文献 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『相対化の時代』坂本義和