責任をとるつもりがなさそうな首相の心づもり

 新型コロナウイルスへの感染が広まって、さまざまな負の影響が出てきて、収集がつかなくなったとする。そのさいに首相は責任をとるつもりなのか。イタリアの記者は首相の記者会見でそう問いかけた。

 それにたいして首相は責任をとるつもりはないことを言っていた。たとえ最悪のことになったとしても、責任をとればそれでよいということではない。

 記者からの問いかけにたいする首相の受け答えは、一般論から見てもおかしいものなのではないだろうか。いざとなってもお上が責任をとらなくてよいことになるからである。

 もしも最悪のことになったとしたら、政権が責任をとることは当然のことだろう。責任をとったとしてもとり切れるものではないのだから、それで十分ではなくまだまだ不十分だというのならまだうなずける。

 責任をとったとしても十分ではないのは、責任をとったとしてもそれで十分条件にはならないことを示す。ことわざでいう覆水盆に返らずで、あと戻りができたり初期化したりすることはできないから、ちゃらにはならないことがある。

 政権が責任をとることは、十分条件にはならないが必要条件ではあるのだと言えるから、責任をとることは不要なのではなく必要であり、しなければならないことだろう。それが不要ではなく必要だからこそ、きちんとした十分な説明責任がいるのだし、あるていどの信頼感を持てるかどうかの分かれ目になる。

 いざとなっても責任をとるつもりがないのであれば、説明責任を果たす動機づけがもちづらい。自由民主主義における競争性と包摂性がないがしろになってしまう。任意のどの政権であっても、いざというさいにしっかりと責任をとることがあって、説明責任を十分に果たすことがあってはじめて、自由民主主義がなりたつことになるのが見こめる。

 ウイルスへの感染が広がる中で、それへの対応について政権がなにか不手ぎわをしたり非があったり危機に十分に対応できなかったりするのなら、そのことの責任をとるようにする。危機管理としてはそうすることがいるが、首相の受け答えはそれとはずれたことを言っているのだと受けとれる。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)