ウイルスへの感染に対応するやり方が、ほかの国と日本とでちがっていてもよいのだろうか

 よその国にはよその国のやり方がある。日本には日本のやり方がある。よそはよそで、うちはうちだ。新型コロナウイルスへの感染に対応するやり方で、ほかの国と日本とはちがっていてよいのだということが言われている。

 このことについてを修辞学の議論の型に当てはめてみると、差異からの議論が当てはめられる。よその国と日本とは類似性がなりたたないとするものだ。

 検査をたくさんして行くという韓国がとったやり方は、それがよいやり方だということでアメリカなどでもとり入れられている。ここに見られるのは修辞学の議論の型でいうと類似からの議論である。

 よそはよそでうちはうちだというのがふさわしいのだとすると、差異からの議論がなりたっていて、類似からの議論がなりたたないのであることがいる。アメリカなどが韓国のやっていたやり方をとり入れているように、差異ではなくて類似性があるのだとすると、よそはよそでうちはうちではなくて、よそのよいやり方をうち(日本)にもとり入れたほうが合理性があるだろう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信