だれが何と言ったってこの政権はまちがいなく強い。副総理はテレビ番組においてそう言っていた。
強いということを場合分けをしてみると、強くて正しいのと、強くてまちがっているのがある。また、弱くて正しいのと、弱くてまちがっているのがある。
強ければよいのかと言えばそうとは言い切れず、強くてまちがっているとたちが悪い。そこが危険な点だ。
民主主義では、強いことではなくて、どちらかといえば、弱くて正しいかそれとも弱くてまちがっているかによるのがふさわしいものだろう。
強いあり方は民主主義であるよりも権威主義であると見られるのがあって、それはたやすく専制主義に横すべりするおそれがいなめない。
強ければよいとは言えず、そこにはプラスとマイナスがある。プラスだけを見るのはふさわしいとは言えず、マイナスのところも見なければならない。たとえ強くてもまちがうことなどで悪くなることはあるのだから、そこからプラスだけを引き出すのはまちがいだろう。
強いことの代償があるとすれば、その代償によってどれくらいの害や不利益がおきているのかを見るようにしたい。そのマイナスの面を見られるとすると、空気による支配をあげられる。自由にものを言うことができなくなってしまう。全体の空気への服従や同調を強いられる。それによって、集団の意思決定がまちがった方向に流されていってしまう。こうなってしまうとまずい。
副総理は、テレビ番組の中で、よい指導者はまれだから、できるだけ長くそれにすがったほうがよいということを言っていた。これの意味するところは、見切りができないことをしめす。
よくない指導者であるのなら、どんどん見切っていったほうがよいのではないだろうか。それができないで、いつまでもずるずると長く引きつづくことは、機会費用が大きくなるし、機会損失となる。
機会費用というのは、あることをやっているさいに、ほかのことをやっていたとしたら得られるであろう利益をくみ入れることである。行列のできるお店に並ぶとすると、その並んでいる時間にアルバイトで働いていれば、お金を得ることができるので、それをくみ入れられる。
部屋の中でいうと、見切ることは窓を開けて換気することになぞらえられる。換気をすれば新しい空気が入ってくるのであって、それは窓を開けることによって行なわれる。それが行なわれないと、部屋の中に汚い空気がたまりつづけることになってしまう。汚い空気を吸うことに不本意に満足させられることになりかねない。
日本の政治では、よい人をすぐに切ってしまい、よくない人をすぐに切ることができない、というあべこべのあり方になってしまっているように見うけられる。これが逆になったらよい。
文豪の夏目漱石は、善人ほど短命ですぐに死んでしまい、悪人ほど長く生きつづけるといったことを言っていたけど、日本の政治ではそれが当てはまりそうだ。悪貨は良貨を駆逐するというグレシャムの法則が当てはまるとも言える。