他を巻きこんで自分も死ぬことの問題と、自分ひとりで死ぬことの問題を、切り分けることがいる

 他の人を巻きこんで自分も死ぬくらいであれば、自分ひとりで死ね。テレビの出演者はそう言ったのだという。子どもや大人を死傷させて、自分も自殺した事件がおきたことを受けてのものだ。

 たしかに、他の人を巻きこんで自分も死ぬくらいであれば、自分ひとりで死ぬべきだ、という意見はなりたたないものではない。悪い動機があって言っているのでもないだろう。許せない事件であるのはまちがいがない。

 あらためて見てみると、はたして、テレビの出演者が言うように、他の人を巻きこんで自分も死ぬくらいであれば、自分ただ一人だけで死ぬべきなのだろうか。これにたいして批判を投げかけてみたい。

 ひとつには、あれか、これか、の二分法になっているのがある。他の人を巻きこんで自分も死ぬのと、自分ひとりで死ぬのとの二つとなっている。この二つしか選べないというのではないだろう。もっと色々な選択肢をあげられるのだから、その中から適したものを選べばよい。二分法によらなければならない強い理由はない。

 原因と結果という因果関係で見ると、他の人を巻きこんで自分も死ぬというのが原因となって、自分ひとりだけで死ぬのが結果だと当てはめられる。このさいの因果関係とは、かりのもので、話の流れだ。この話の流れにおける、原因と結果を逆にすることができる。

 逆にすると、自分ひとりだけで死ぬのが原因となって、他の人を巻きこんで自分も死ぬのが結果となる。じっさいに、事件では、そういう心理がはたらいていたのではないだろうか。だとするのなら、自分ひとりだけで死ぬという原因を断つことがいるだろう。この原因だけで、その段階で踏みとどまるのをのぞむのは、それが引き金となって結果をもたらしてしまう危なさがある。

 沖縄県では、第二次世界大戦において、激戦地となった。アメリカ軍の上陸で総攻撃を受けた。日本軍の軍人は、沖縄の現地の人を同じ日本人であるのにもかかわらず(スパイがいるかもしれないということで)信用しなかった。日本軍の司令官はきわめて無責任なまちがった司令を沖縄で下したことで、出さなくてもよい多くの犠牲者が沖縄では出ることになってしまったのだ。

 無責任でまちがった本土の日本軍のせいで、沖縄では自決(自殺)させられるはめになった人は少なくはない。ほんらいは犠牲者をもっと少なくできたのにもかかわらず、まちがった国家主義軍国主義の根性論や精神論がまかり通ってしまったために、歯止めがかからずにつき進んでしまった。

 根拠のない神風神話や神国日本の神話を信じさせられた、戦前や戦時中における皇国教育や排外思想の教義(ドグマ)が、国民や軍人を洗脳したおそろしさがある。戦後の自虐思想(史観)に染まっているだけだ、という批判を受けるかもしれないのはあるが。

 日本の本土の捨て石となった悲劇の歴史の教訓として、命(ぬちどぅ)たから、ということが言われているという。命は宝だということで、命の大切さを言っているものだ。ことわざでは、命あっての物種(ものだね)と言われる。

 命を大切にするようにして、人を巻きこむのでもなく、自分だけが死ぬのでもないようにしたい。どちらか一方だけしか選べないということではないだろう。建て前やきれいごとにすぎないのはあるかもしれないけど、かりに自分だけが死ぬのだとしても、それは不健康な自己決定だ。その自己決定を個人にさせてしまうのは、社会の責任であるのはまぬがれそうにない。

 参照文献 『ひめゆり沖縄戦 一少女は嵐のなかを生きた』伊波園子(いはそのこ) 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司