良品か不良品かという箱に当てはめるのは、個人的にはうなずきづらい

 人間が産まれてくる中で、不良品は何万個に一個かはある。これは避けられない。それを減らして行って、何万個ではなくて何十万個や何百万個に一つくらいに減らして行ければよい。みんなの努力でそうして行く。児童や大人を殺傷する事件を受けて、テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 不良品に当たるような人たちは、社会の中にあるていどの絶対数はいるものだ。その人たち同士でお互いにやり合ってほしいものだ。出演者はそう言っていた。

 この発言を受けて、人間を物に例えるのはどうなのかという気がする。物における良品と不良品ということで、不良品というのが具体としてどういうものなのかの定義づけがあいまいだ。犯罪を犯したらその人は不良品ということになるのだろうか。そこには後知恵や後づけの認知のゆがみがはたらいている。

 テレビの出演者が言うように、深刻な犯罪を犯す人を不良品として見なすことは、一つの文脈としてはとれるものだろう。その文脈とは別の見かたができるとすると、またちがった見かたもとれる。はたして、人間のことを、良品と不良品といったように、はっきりと分けることはできるものなのだろうか。

 不良品に当たるものは悪いものなのだから、それを医学における外科手術のように切除したり隔離したりすればそれですむ。そんなふうに見なせるのかは疑問だ。不良品に当たるようなものがあるとすれば、それは、社会そのものの写し鏡や合わせ鏡となるようなものなのではないだろうか。これはあくまでも個人的な意見というのにすぎないが、そういう気がするのである。

 不良品とされるものがあるとしても、それは社会において例外に当たるものだとか、社会から切り離すことができるものだとかというのではなくて、社会と分かちがたく結びついているものなのではないだろうか。社会が生み出してしまったというところがある。社会の暗部としての呪われた部分だ。

 良品とされようが、不良品とされようが、みんなが生きて行きやすいような、風通しや抜け道の多い社会のほうがまっとうだろう。理想論にすぎないものではあるが、良品や不良品という区別は、一つのものさしを当てはめてみたものにすぎないから、絶対化されるのではなくて、相対化されることがいる。

 良品は社会に適合して、不良品は不適合となる。不適合な不良品は価値がない。そんなふうに切り捨ててしまうのはいささか乱暴だろう。自由主義において、他者に危害を加えないようにするという規則(義務)を守ることはいるが、その文脈とは別に、たとえ社会に不適合な不良品とされるとしても、十分に生きて行きやすいようでないと、まっとうな社会のあり方とは見なしづらい。

 社会において、良品か不良品かという区別がとられるのは、一つのものさしを当てはめることで、差別による秩序がとられることをあらわす。こうした差別による秩序が現実においてとられていないとは言えそうにない。そういったところから、ことわざでいう窮鼠猫を噛むということがおきてしまう(正確には猫を噛むのではないが)。

 人間そのものを、良品か不良品かという箱に当てはめるのは、適したことだとは言えそうにない。それらのちがいは、当てはめるものさしによってちがってくるし、ていどのちがいにすぎない。固定化されるものではない。純粋に良品だとか、純粋に不良品だとかといったようには見なせないものだ。

 深刻な犯罪を犯すことが正当化されるのではない。とはいえ、じっさいにおきた深刻な犯罪だけが悪いことなのだろうか。犯罪というのはえてして、個人による小さいのものほどとがめられて、権力をもつ者による大きいものほど見のがされやすい。権力をもつ政治家や高級な役人がしでかした、かつて(過去)やいまの悪いことは見のがされやすいのだ。下に厳しく、上に甘い。こうしたおかしさがある。

 個人の実存の(良品か不良品かという)視点ではなくて、社会に視点を移してみると、色々とおかしいところがある。適正なあり方になっているとはいえず、不平等になっているところがある。運か不運かによって生存のしやすさやしづらさがちがってくる。

 運か不運かということを抜きにして、自己責任ということで、不良品とされるのはおかしいことだろう。危険性はできるだけ社会化されることがいるが、危険性が個人に押しつけられるのは、個人への責任のなすりつけだ。

 それぞれの人が置かれている状況がちがうのは無視できづらい。恵まれている人もいるし、そうではない人もいる。それをくみ入れないで、抽象において、良品か不良品かとすると、具体の細部が捨象されることになる。

 深刻な犯罪を犯すことは正当化できないことではある。他者に危害を加えてはならないという自由主義の規則(義務)に反しているからだ。規則を守るのは、長期の利益にはなるが、長期の利益などどうでもよいということになると、動機づけがとりづらくなる。中期や短期の刹那主義や虚無主義(ニヒリズム)におちいると、規則を守りづらくなるのだ。

 自由主義の文脈から視点を移してみると、社会において貧困や搾取や人権の侵害などの犠牲がおきているのがある。それらを自己責任だとして片づけてしまい、不良品ではないのをすべていっしょくたにして良品というふうに絶対的に正当化することもまたできないのではないだろうか。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『文学の中の法』長尾龍一