感受性のちがい―感受と非感受

 感受性がとぼしいのは、その人のせいによる。ほかの人や社会のせいにするべきではない。はたしてそう言うことはできるのだろうか。

 自分の感受性については自分で何とかするべきだというのは、正しいことだというのはあるだろう。それくらいのことは自分で何とかするべきであって、ほかの人や社会のせいにするのはのぞましくはない。

 ある人の感受性は、いったい何によって決まるのだろうか。それは思想家のカール・マルクスの言っていることを当てはめてみれば、その人が置かれている社会によって決まるところがある。社会によってその人の意識すなわち感受性が決まってくる。

 その人がどういうことをどういうふうに感受するのかというのは、そこに絶対の正しさやまちがいがあるというよりは、それぞれの感受のしかたがそれぞれに(それなりに)正しいということもできるのではないだろうか。これが絶対に正しくて、これが絶対にまちがっているというのはあまりないことだろう。

 ある人がどういうことをどういうふうに感受するのかは、それをうら返して見てみれば、何かを感受しないことでもある。そこについては、水準と好みということが関わってくるのはあるかもしれないけど、絶対化ではなくて相対化することができるのがある。主観であることをまぬがれることができづらい。何についてをどのように感受することがふさわしいのかは一義に決まるものではなくて、多義だととらえられる。

 感受するのは目だちやすいが、感受しないのは目だちづらい。その目だちづらいところに目を向けてみると、非感受性ということがなりたつかもしれない。人はみな感受できないところをもっているのであって、何かを感受できていないところがある。それは水準の高低とはややちがっていて、たとえ水準が高かったとしても、やはり感受できていないところはいぜんとしてあるものだろう。なので、感受することには優劣とはまたちがう多様性があるということができなくはない。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり)