隣国を批判する日本の国内の報道と、隣国にたいする悪玉化(スケープゴート)―反対勢力にたいする虚心坦懐(きょしんたんかい)の必要性

 日本と韓国は、国どうしが対立し合っている、と報じられている。日本としては韓国が悪いと言い、韓国としては日本が悪いと言う。

 日本で報じられる報道に接していると、韓国のことを悪玉化しているような印象を受ける。韓国はどうだとかこうだとかとして、否定的な見かたをしていることが少なくない。

 引っかかるところがあるのは、虚心坦懐(きょしんたんかい)というのがない点である。もしも、日本で報じる報道の中で、韓国のことについて触れるのであれば、それは理想としては虚心坦懐になされることがいるのではないだろうか。現実としてはそれを十分に行なうのは難しいのはあるものの、それがいちじるしく欠如していて、それにたいする最低限の意識すらも多くの大手の報道機関には感じられないことが少なくないのだ。

 できるだけ虚心に韓国のことに目を向けたり耳を傾けたりして、それで韓国について少しでも理解を進めるようにする。それは、韓国の立ち場や状況があることをくみ入れることである。はじめから決めつけるのではなくて、できるだけ虚心に見て行って、韓国の立ち場や状況にたいする理解を深めて行く。そのうえで、韓国におかしいところがあるのであれば、それを批判するのはあってよいことだ。

 手つづきとしてこういうのがあると益になることが見こめる。日本から見たものではなくて、日本からすれば他者に当たる韓国はこう見なしているとか、韓国はこういうあり方をしているというのを、虚心になって日本は受けとめる。その段階があれば、日本から見た韓国という文脈だけではなくて、そのいっぽうで韓国はどういうふうなのかという他者の文脈をもてる。自他の文脈どうしの関係があったうえで、それらを互いに行き交わせて、修正し合うことができれば内容をよくすることに役に立つ。そうではなくて、日本の報道ではもっぱら日本による文脈という単一のあり方にとどまっている。

 大手の報道機関には、そのようになるべく虚心になるようにして他国を見ることをしてほしいのだが、それが行なわれていなくて、日本の国民におもねる大衆迎合主義になっているように映る。

 韓国は韓国で、完全な国というのではないのだから、大衆迎合主義になっているところがあるかもしれないし、まちがっているところはあるかもしれない。それを日本の国内で報道されるものの中で言うのであれば、それは日本の政治や報道にもまた当てはまるのだから、かたや日本はどうなのか、という日本の内政のことも言わないとならない。そうでないと公平ではないしつり合いがとれていない。

 ゲシュタルト心理学では図と地ということが言われている。日本の大手の報道機関で報じられることについて、じっさいに言われていることである図ではなくて、言われていないことである地を見なければならないことになっているのがある。じっさいには言われていない地を隠すために、じっさいに言うことである図を報道の中で言っているのではないか。そういう疑いをぬぐい去ることができそうにない。図である韓国への批判を報道の中で言うことによって、言わなくてもすんでいる地とは何か、という視点がもてるのだ。

 参照文献 『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学松永和紀(わき) 『別冊「本」RATIO(ラチオ) SPECIAL ISSUE 思想としての音楽』片山杜秀(もりひで)編集