愛国史観と自虐史観―認知的不協和の解消と対の思弁

 日本をよしとする。歴史においてそれがとられると、愛国による歴史観(歴史像)になる。これは自虐史観や自虐思想を否定するものだ。

 自虐史観や自虐思想と言ってしまうと、語弊があるのはたしかだ。これはいわばメタ言語による名づけであると言ってよいものだろう。メタ言語というのは、そういうものとして見よというものだ。それをさし引けば、じっさいに意図して自虐であるというものではない。

 日本をよしとする愛国による歴史観か、それとも自虐史観か、ということではなくて、その二元論をとらないようにすることができる。

 愛国の歴史観をとると、自虐史観は都合の悪いものだ。自虐史観を否定によって価値づけや評価づけすることになる。自虐史観を否定することで、愛国の歴史観は肯定されることになる。

 愛国の歴史観自虐史観とは協和しない。不協和となる。その不協和を解消しようとすると、愛国の歴史観をとって、自虐史観を否定することになる。

 認知の不協和になっているのを解消して協和させるのは、愛国の歴史観に都合のよいものだけをよしとすることにほかならない。そこに危なさがあることは否定することができない。

 愛国の歴史観が正で、自虐史観は負だ、というのではない。それとはちがい、認知の不協和を解消して協和させることに、逆作用(副作用)があるのだ。愛国の歴史観は正しく、自虐史観はまちがっているということで、協和するほうへ向かうのは、そこにワナがあることに気をつけることがいる。

 肯定のものだけではなくて、否定のものも認めて、その二つをつき合わせるようにする。これは、肯定のものだけをとるのではないものだ。肯定のものにも否定の面があるし、否定のものにも肯定や積極の面がある。否定のものがもつ肯定や積極の面を見ず、それを頭から切り捨ててしまうのであれば、きわめて限定された有用性(合理性)の回路の中にとどまって、その回路の外に出ることは難しくなる。

 参照文献 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『タイトルの魔力 作品・人名・商品のなまえ学』佐々木健一 『図解雑学 心理学』大村政男