議論にはいたらなかった、とするのであれば個人的には腑に落ちる

 議論は平行線となった。議論は深まらなかった。党首討論について、そう報じられている。この報じ方はおかしいのではないかとの声が投げかけられている。この声については個人としてはうなずけるものである。

 議論は平行線となったり、深まらなかったりしたのではなく、そもそも議論は行なわれなかったのである。首相による個人の演説に時間が費やされた。野党は議論を行なおうとしたのだけど、首相はそれに応じなかった。議論を避けたのである。

 首相は議論をする気がないのだと言わざるをえない。口では議論をしたいだとかと言ってはいるけど、言と行がまったくといってよいほどに合っていない。かりに、党首討論において、議論が平行線となったり深まらなかったりしたのであれば、どうして平行線になったのかや、どうして深まらなかったのかについて、議論をすることがあってよいのがある。それすらもしようとしていない。する気配すらまったくない。これは、首相に議論をする気が毛頭ないことをあらわしている。

 どうやったら議論をしないですむのかや、それを避けることができるのかに、並々ならぬ意欲をもっているというふうに映る。議論をいかに成り立たせずに、骨抜きにするのかに力を注いでいる。そこに意欲をもってしまっているのは残念だ。議論を避けて、たんに形だけ整えてもほとんど意味がない。

 形を整えるのであれば、中身もともなわせるようにしてほしい。中身とは、きちんとした民主的な効果をもった議論のことである。保身に走らないようにして、辞めるのもいとわないというくらいであってほしいものである。それが、説明責任を果たすことであり、自由民主主義をはたらかせることにつながる。競争性と包摂性である。

 いまは、不自由非民主主義になっているような気がしてならない。競争がなく、排斥となっている。与野党の切磋琢磨がない。権力が独占されている。えてして野党や反対勢力が不当に悪玉化されている。好敵手ではなく、敵にされてしまっていて、敵視と軽べつの対象になっている。強い敵視は邪視であり、暴力(せん滅)の視線である。議論のできる社会状態から、議論のできない自然状態(戦争状態)へころげ落ちてゆく。いやそんなことにはなっていない、ということも言えるかもしれないが、ずるずると落ちていっているような気がするのである。権力への賛同(コミット)によって、ゆでがえる現象のようになっているふしがある。これらが杞憂であり思いちがいであればよいのはある。