自力無効の有効と無効(決定不能性)

 自力無効は、浄土真宗の教義だそうだ。自分の力の限界に気づき、それによるのではないあり方をとる。阿弥陀仏に任せる他力をとるのである。このさい、自力を陽として、他力を陰として当てはめることができる。この当てはめは、あくまでも便宜によるものである。

 自力無効は、自力である陽をとらないで、他力である陰をとることになる。そうして陰をとるとして、それが極まってしまい、反対の陽に転じるなんていうことがあるという。自力をとらず、他力によっているとしているのが、じっさいにはそうではなくて、他力によらずに自力によってしまっているのである。

 何が自力であるのかや、何が他力であるのかについて、とりちがえがおきてしまう。そうしたことがおきると、阿弥陀仏に任せるつもりが、そうではなくて自力によってしまい、自力有効となる。東洋の陰陽の思想では、陰(陽)が極まると陽(陰)に転じることがあるとされていて、それがおきてしまったと見なせる。

 こうしたのを防ぐためには、半陰半陽として、両方を半分ずつとるようにしたほうがまちがいが少ない。半分は自力であり、半分は他力である、みたいにするのである。これだと、自力無効にはならなくなってしまうから、そこからは外れてしまうのがあるけど、反対のものに転じてしまうのを少し止められる。うまくすれば、中庸みたいなふうにできるから、つり合いをとりやすい。