憲法と開かれ

 日本国憲法は、開かれているのか、閉じているのか。そうした見かたができるかもしれない。このさいの開かれているというのは、哲学者のウンベルト・エーコによる開かれという概念によるものである。この開かれの概念を日本国憲法に当てはめてみることができそうだ。

 閉じているものとしてとらえると、どうしても論争を呼びおこしてしまう。神々の争いだ。そうして論争がおきてもとくに悪いことはないわけだけど、そこには、開いているか閉じているかによるくいちがいがおきているおそれがある。そうであるとすると、そこを意識するのが少しはあってもよい。

 開かれているのは、創造的なものなのだそうである。答えがいくつもある。いっぽう、創造的でないものは、開かれてはいなくて、一つの答えによっている。憲法が開かれていて創造的であれば、答えがいくつもあることになるから、それだとまずいという見かたもできる。しかしそれは、あくまでも相対的なものであり、憲法の下位にあたる法律に比べたら、憲法は理念を示すものでもあるのだから、開かれていて創造的なところが少なからずあるというわけである。

 憲法は詩(ポエジー)である。そんなとらえ方をしている人がいる。憲法を詩として解することがいるというのである。この意見は、日本国憲法に開かれの概念を当てはめられることを示唆している。詩や小説は、開かれによるものであり、創造性をもったものなのだそうだ。この見かたについては、いや、詩などではない、という反対意見もあるかもしれないが、あくまでも好みの表明みたいなものとして、主観によるのはたしかである。

 さしあたっての試しであり、一つの切り口のようなものとして、開かれの概念を当てはめてみるのがあってもよい。そうしたほうが、創造性をもつことができる。色んな角度から見ることができれば、それだけ開かれの度合いも増す。絶対にそのようにしなければならないというわけではないだろうけど、たとえばある箇所の文字通り(リテラル)なとらえ方にこだわらずに、そこから離れてしまうことがたまにはあってもよい。文字であらわされているのは現象だが、そこの背後にある(であろう)理念のようなものを探ってゆくようなふうにする。