もっとも短い伝記は、生まれて、苦しんで、死んだ、というものらしい

 人生には救いはない。作家の車谷長吉氏が、そのように述べていたのを見かけた。車谷氏は、生まれたころから遺伝性の副鼻腔炎(蓄膿症)を患っていたそうで、鼻から息を吸うことができなかったという。そうした辛い境遇をかかえていたこともあり、また生きてゆく中でのいろいろな人生の経験や観察もそこに重なり、救いがないとする結論にいたったのだろう。

 気持ちがふさいでしまっていて、ひどくゆううつなときには、たしかに人生に救いはないのかもしれないといった感じがする。救いがないことにたいして少なからぬ説得力を感じるのである。

 たとえ救いがないのだとしても、それでかえって肩の荷が下りることもありえる。これは逆説であることになる。しかし、そうして逆説がはたらくのは必ずしものぞめない。救いがないことをまともに受けとめてしまうといったふうに、通説みたいにしてしまうありようがある。こうした通説の受けとめ方になると、文字通り救いがないことになり、どこまでも浮かばれないかのようである。

 現にこうして救われていないように受けとめられる自分がいるのだとすると、それはけっこう強い例証となる。あまり例証にしたくはないのもたしかだけど、どうしてもそうなってしまうところがある。自分による足場に引っぱられてしまうようなあんばいだ。自分ばかりを気にするのはよくないこともあるわけだけど。

 救いがないのは、一面の真実であるような気がする。自分が落ちこんでいたり沈んでいたりするようなときには、とりわけ真相であるかのようにひしひしと感じられる。しかしそれと同時に、救いがないのを証明することもできづらい。たとえ空手形をつかまされることになるおそれが高いのだとしても、いつかはほんとうの約束手形をつかめるのではないか。決して賢くはないかもしれないが、そうした期待をもってしまうこともたしかである。

 哲学者のショーペンハウアーは、この世について厭世的な見かたをとっていたという。神さまではなく、悪魔がこの世を支配しているといった悲観主義によっていた。悪魔がこの世を支配して動かしているとする見かたは、必ずしも頭から捨て去ることができそうにはない。それなりの整合性をもっているのはたしかだろう。ある種のつじつまは合っていると言わざるをえない。ただ、あんまりこのような見かたによりすぎると、偏ってしまうところもあり、ことによると危ないようになりかねない。

 厭世観による悲観主義は、一つの見かたであるけど、それだけをもってしてこと足りるとはいえないものである。色々な見かたが成り立つのがあるから、一つの見かたにだけよるのではないようであるのがのぞましい。

 止まない雨はないとも言われる。それをふまえると、ずっと空に厚い雲がおきてばかりいるとはかぎられない。いつかは雲と雲のあいだに割れ目がおきて、光が差すことがのぞめる。積極的な態度であるとはいえないかもしれないが、それを待つのも悪くはないかもしれない。そうして他力によるばかりではなく、少しは自力でもやってゆかないとならないかもしれないのもある。

 時間とは変化のきっかけであるから、時間がたてばものごとは何らかの形で動いてゆく。ずっと静止しているわけではないだろう。それにくわえて、空間の面に目を向けてもよいかもしれない。もしかりに厭世や悲観による空間があるのだとしても、それとはまたちがった空間も別にありえる。なので、厭世や悲観とはまた別な空間に移行するみたいなこともないではない。それについては、空間の現実味や臨場感(リアリティ)がかかわってくることになりそうだ。または、文脈(コンテクスト)であるといってもよさそうであり、それを交換したり持ち替えられたりできるのだと、単一なだけであるよりかは融通がきく。場合によっては難しいかもしれないが。

 文脈とは意識による志向性をさす。その志向性によって意味づけがされる。主観による志向性で意味づけするのを、たまにはカッコに入れてみるのもよいのかもしれない。そのようにできれば、またちがった角度からものを見ることができるようになるのがのぞめる。それまでとはまたちがった意味付与ができることがありえる。そんなにうまくはゆかないものではあるだろうけど、うまくすれば陰と陽の転換みたいなこともできるかもしれないので、それができればさいわいである。