責任感の必要性のねつ造(物語としての責任感)

 人手が足りない。完成させないといけない期日も迫っている。二〇二〇年に催される東京五輪で、会場として新国立競技場が使われる。まだ建設の途中にあるわけだけど、そのさなかに現場で監督をしていた新人の男性が、自殺をしてしまった。

 この男性は、新人であるにもかかわらず、現場の監督を任されていたという。そのせいもあり、上下関係での嫌がらせであるパワー・ハラスメントを受けていたとされる。ほんらい、任に適した人を配置するのは会社の責任といえる。適していないのにもかかわらずそのまま任せていたのだとすれば、いったいなぜそうしたのだろう。

 現場の監督を任された新人の男性は、共有地の悲劇におかれたといってよい。自分がさばけるだけの仕事の要求であればよいが、それを超えた量であるのなら、押しつけとなる。量を加減して、その人がさばけるだけの要求にとどめるのがまっとうだろう。

 仕事とはそれほど楽しいものではない。それがもし楽しいのだとすれば、仲間との助け合いがあったり、やっていることがきちんと認められていたり、賃金がしっかりと支払われていたりすることによる。そうしたのがなければ、たんなる苦痛となるおそれが高い。その仕事さえしていなければ受けるはずのない苦痛を与えるのは、その人にとって悪いことをしているといえそうだ。

 一人ひとりがよき生(ウェル・ビーイング)を送るのであったらよい。そのためには、社会の中でよしとされていることとは別に、自分が幸福になるのを一番に優先させるのが許されてもよいのがある。少なくとも、視点の一つとしてそれがあるのはかまわないだろう。日本国憲法でも、個人の幸福追求権が保障されている。

 自己への配慮や関心がある。英語では take care of myself である。こうしたものをもつのがよいのかもしれない。自分をきちんと take care するのが許されて、認められる。自己への配慮や関心をもつことができるようであるのがいる。それをさせなかったり妨げたりするようなものはよからぬものである。ときにはそうしたことも言える。外にある社会や集団が押しつけてくるものがあるとして、それに待ったをかけて切断するようなのができればよい。共同幻想と自己幻想を分けるようなあんばいだ。仏教の開祖であるお釈迦さまは、天上天下唯我独尊といっている。

 競技場の建設をしなければならないとして、それに役立つか役立たないかで人の価値がはかられてもよいものだろうか。これだと手段的価値となってしまう。そうではなくて、人には内在的価値があると見なすことができる。手段ではなくて、目的として人があつかわれるのをさす。こうした見かたは、あくまでも理想にとどまるものではあるかもしれない。そのうえで、人を何かの手段として見すぎてしまうと、野蛮と化すのを避けづらい。

 二〇二〇年の五輪に向けて、急ピッチで競技場の建設を終わらせなければならない。それはたしかに重要なことではあるのだろう。ただ、そうしたふうに無理に計画が立てられて、資金が限られている中では、そのしわ寄せが来てしまうのは弱者である。横暴な経済権力や国家権力を弱者にふるってまでやるだけの意味あいがはたしてあることなのだろうか。人をしいたげてまでやることがいるのかは疑問である。五輪という盛大なもよおしの見かけではあるが、少し耳をすませると、ひどくうつろな響きをたてているのではないか。廃墟の痕跡がある。