よいか悪いかというのは、市場の数量による単一のものさしだけではかれるものではないだろう

 税金を払う。納税する。その額よりも、税金を受けとる額のほうが多い。それを税金どろぼうだと呼ぶ。ツイッターのツイートでそう言われていた。

 多くお金を稼いで、経済活動にいそしんで、多く納税する人は、それをもってしてえらいと言えるのだろうか。少なくしかお金を稼げず、少なくしか納税しない人は、駄目なのだろうか。税金を受けとることはよくないことで、税金どろぼうだというのは、ふさわしいことだとは言えそうにない。

 資本主義の社会の中に生きているわれわれは、市場のものさしによってはかられる。人が市場のものさしではかられることによって、商品であるかのように見なされる。交換価値ではかられるのだ。

 ほかと比べて、えらいだとかえらくないだとか、税金どろぼうだとかというのは、市場のものさしによる見なし方だろう。これは人を交換価値で見なすものだ。それだけではなくて、人には使用価値がある。使用価値というと語へいがあるかもしれないが、人は商品としてあつかわれるだけではないということだ。

 市場原理によるものさしで見るのなら、人にはえらいとかえらくないとか、税金どろぼうだとかということがなりたってしまうかもしれない。それだけではなくて、人はそれそのものが目的だというのがある。人は何かの手段なのではなくて、それそのものが目的だということだ。

 中国の思想である道家では、万物斉同(せいどう)ということを言っている。この世にあるあらゆるものは、人も含めて、みな同じだということだ。ここから、人にかぎって言えば、人はみな同じだということになる。さらに、同じだということとともに、人にはそれぞれにちがいがある。個人の尊重だ。

 税金どろぼうという箱に人を入れるのではなくて、あくまでも程度のちがいということが言える。〇か一かということではないだろう。

 税金の使い方が適正であればよいのだから、そこを見るようにすることができる。適正でない使い方がされているのなら、それを批判すればよい。

 税金だけでは足りなくて、国の財政は借金によってまかなわれている。国の借金が多くなっていることのまずさがある。それぞれの人というよりは、国の全体で、お金の使い方をまちがえて来てしまっているのではないだろうか。少なくともそういう見かたはなりたつだろう。

 参照文献 『老荘思想の心理学』叢小榕(そうしょうよう)編著 『いやでもわかる金融』日本経済新聞社編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『すべての罪悪感は無用です 自分のために生きられないあなたに』斎藤学(さとる) 木附(きづき)千晶

アベノミクスの成功の神話と自己触発構造

 いまの首相による経済政策である、アベノミクスはうまく行っている。それにまちがいはない。与党である自由民主党が、党内で配ったという冊子の中には、そうしたことが記されているという。

 アベノミクスがうまく行っているのにまちがいはないというのは、自己触発構造によるものだ。これはいわば、循環論法のようなものだ。たしかな根拠にもとづくものというよりは、根拠が結論になっているといったことである。

 アベノミクスにかぎらず、いまの首相による政権は、自分たちのやっていることが、うまく行っているからうまく行っている、といったようなことで、閉じたあり方になっているのが見られる。

 閉じたあり方ではなくて、開かれたあり方になるようにして、他者触発構造であることがいる。他者というのは、たとえば反対勢力(オポジション)である野党や、権力に批判的な報道機関がある。それらの言っていることを受けとめることが、政権には求められる。それをしようとしないかぎり、閉じたあり方が改まることはないだろう。

 他者触発構造とは、対話を行なうということだ。対話をせずに、同質の者どうしの会話や、独話をするのでは、日本の国や国民にとって益になることを行なうことはできづらい。

 参照文献 『精神の政治学今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 「他者を信用するということ」(「現代思想」一九八七年八月号)今村仁司 『あなたの人生が変わる対話術』泉谷閑示(いずみやかんじ) 『ネトウヨとパヨク』物江潤(ものえじゅん)

年金についてのデモと、馬鹿と税金どろぼう

 年金で老後を暮らすには、二〇〇〇万円ほど足りない。さらにそれが増えて、三〇〇〇万円ほど足りないことがわかった。金融庁の報告書ではそう言われているという。

 年金について、デモが行なわれた。これまでに支払った年金(の保険料)を返せとか、暮らせるだけの年金を払え、というふうにうったえられていた。これについて、デモを行なった人たちにたいして、馬鹿だとか税金どろぼうだ、という批判がツイッターのツイートで投げかけられていた。

 デモを行なった人たちに向けて、馬鹿だとか税金どろぼうだというのは、修辞学で言う、人にうったえる議論(対人論法)の虚偽ではないだろうか。馬鹿だとか税金どろぼうだとか、そういうふうに決めつけているということだ。馬鹿や税金どろぼうという箱の中に、人を入れてしまっている。

 デモを行なった人たちには色々な人がいるのだから、そのすべてをまとめていっしょくたにして、馬鹿だとか税金どろぼうだとかと言うのはふさわしいことではないだろう。

 たとえば、貧困で低賃金の労働で生活している人がいるとしよう。そのワーキング・プアの人がデモに参加していたとして、なぜ馬鹿だとか税金どろぼうと言われないとならないのだろうか。正直に言ってそこがちょっとよくわからない。むしろ、資本主義の社会において、搾取や抑圧や構造的暴力を振るわれつづけて被害を受ける側なのではないだろうか。

 年金についてのデモということで、年金だけに限っていえば、年金の保険料を支払いつづけて、もし長生きすれば、支払いと受給とのかね合いで、得をするかもしれない。それとはちがい、早死にすれば、支払いだけで終わるので損(払い損)だ。これは、年金の仕組みからくるものなので、言ってもしかたがない部分はある。

 得か損かということでは、ほかには、世代間で不公平になってしまうのがあるし、必ずしも合理の仕組みによっているとは言えそうにない。支払いの期間は延びて行き、受給の期間は遠ざかって行く。まるでゴールポストが動くかのように。不安や心配をおぼえずにいられそうにない。

 効率性や公平性の点で、年金をふくめてその他の社会保障の制度について、批判として見るようにして、問題性を明らかにするのは益になることだろう。非効率や不公平になっているところが少なからずあるということだ。

 低賃金で貧困の人には、負担に逆進性がはたらく。生活の中で、経済において重みが大きい。馬鹿だとか税金どろぼうだとかというのは、当たらないことだろう。馬鹿だとか税金どろぼうだと言うのであれば、出口が見えない中で、低賃金で貧困の生活をしつづけてみたら、その立ち場(ワーキング・プアの立ち場)のありようが少しはわかるだろう。

 年金の仕組みが、効率性と公平性を十分に満たしているのなら、不満はおきづらい。そうなっていないから、不満がおきて、デモがおきることになるのだととらえられる。デモを行なった人にたいして、馬鹿だとか税金どろぼうだということが言われたが、かりにそうなのだとしても、自分たちの主張をしているだけではなくて、誰かのことを代弁している可能性もある。代わりに代弁しているということだ。

 一つの判断や仮説として、まちがっているところがあるのなら、それにたいして反論や批判はあってよいことだ。デモで言われていたような、具体の主張の内容からはやや離れてしまうが、年金の制度や社会保障の制度は、総体として、問題性がまったくないとは言えそうにない。その問題性を、ないことにするのではなくて、あるものとしてとり上げるのは、益になるのがある。

 いまの政権は、年金は安心だとか、財政として大丈夫だと言うのだが、これは政治家によるカタリ(騙り)なのがあるから、そのままうのみにはできづらい。いまの政権が言うことは、最終の結論というのではなく、判断や仮説や見解にすぎない。それらを批判として受けとることがいる。

 いまの政権や高級な役人が言うことの、信ぴょう性や信頼性や妥当性や説得性に、かなりけちがつくことがあることは少なくない。なにせ、公の情報や数字の改ざんをしているくらいだから、カタリだらけになってしまうのは無理もないことだ。

 参照文献 『年金は本当にもらえるのか?』鈴木亘(わたる) 『財政危機と社会保障鈴木亘 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『損得で考える二十歳(はたち)からの年金』岡伸一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『政治家を疑え』高瀬淳一

編集の順機能と逆機能(プラスとマイナス)

 編集には、順機能と逆機能がある。編集による取捨選択は、よいところがあるが、悪いところもある。

 大づかみな対比ではあるけど、編集されたものとしては、テレビや新聞がある。編集されていないものとしてウェブがある。このちがいはあくまでも相対的なものにすぎないのはあるが、編集されていることがかえってあだになっていることは少なくはない。

 編集されて取捨選択されることによって、それが悪くはたらく。偏向みたいなことになる。それが、編集の逆機能ということだ。

 テレビや新聞は、時の政権の顔色をうかがわざるをえないのがある。政権に忖度したり、政権から圧力がかかったりするのを避けづらい。そこから、たとえ有益な情報であったとしても、政権に都合が悪いことは、はねられてしまうのだ。

 ウェブは、編集されていないというか、それがあまりないことでかえってよいところがある。テレビや新聞であまりとり上げられていないことでも、大きくとり上げられる。これは、編集されないことの順機能だ。

 いずれにしても、受け手が情報に接するさいには、たとえそれがどんな媒体であろうとも、それなりの受けとり能力(リテラシー)が求められるのはたしかだ。それとともに、割り切れないということで、絶対ではなく相対だというのがある。これといった単一の(唯一の)正解がないことは少なくはない。

 参照文献 『日本のルールはすべて編集の現場に詰まっていた』元木昌彦 『知の編集術』松岡正剛

政治において、どこが勝って、どこが負けるかというのは、本質の問題や核心の問題だとは言えそうにない(対立の争点の解消とはまた別だ)

 右派(保守)は政治において勝ちつづけている。左派は負けつづけている。いまの政治では、それが言えるかもしれないが、そもそも、日本の全体というくくりで言えば、日本そのものが全体として負けてしまっているのではないだろうか。

 日本そのものが全体として負けてしまっているというのは、たとえばこういうことにある。与党その他が大衆迎合主義(ポピュリズム)に走る。権力をになう政治家や高級な役人が、嘘やごまかしや改ざんを行なう。カタリ(騙り)がはびこる。情報の歪曲が行なわれて、フェイク・ニュースが流通する。大手の報道機関が、十分な権力チェックを行なわない。これらのことがおきてしまっているために、日本の全体が客観としてうまく行っているとか勝っているとはちょっと言いがたい。

 勝っているのと、負けているのというのは、部分に当てはまる。勝っている者(与党の政治家や高級な役人)が、でたらめなことをやっていれば(やって来ていれば)、それは部分だけにとどまらずに、全体に波及することになる。全体が駄目になってしまう。そういうことが言えるのではないだろうか。

 勝つか負けるかということで肝心なのは、どこが勝ってどこが負けるかということにあるのだとは言えそうにない。国民のみんなにとって益になるということが大切だ。功利主義でいえば、国民のみんなにとって効用の総量が多くなるということが勝ちだろう。このさいの国民というのは、いまの時点に限られず、将来にわたる人たち(次世代)を含む。また、ほかの国の人たちをくみ入れられる。

 功利主義だけでは不十分であって、少数者の利益というのが十分にくみ入れられないとならない。少数者が切り捨てられてしまうようでは、たとえ少数者が多数派に負けるのだとしても、それは日本にとってよいということには必ずしもならない。少数者が切り捨てられるのなら、日本の全体として見て勝っているということにはならないだろう。

 これまでに、権力をもつ政治家や、高級な役人がしでかしてきたいくつものあやまちやまちがったことがあるのにもかかわらず、それらの過去をまるで無かったことであるかのようにすることには、個人としてはうなずけるものではない。国の財政の巨額な赤字や、社会の中のさまざまな問題や課題の山積がある。それらがあるのに、どうして日本の全体がうまく行っていて、勝っているのだということができるだろうか。

 これまでに、政治の失敗やあやまちなどによって、さまざまな犠牲を生んできている。年間に自殺者が三万人ほどおきつづけていたのがある。そうしたことをくみ入れると、これまでに、権力をもつ政治家や、高級な役人によって、日本はうまくことを進めてきたとか、勝ちつづける歩みをたどってきたのだとは、言うことはできづらい。

 どういう視点で見るかというのでちがいがおきるのはあるが、これまでにおきた、まずいところやおかしいところなどの負のところに視点を向けることができる。それらは、これまでに勝ってきた者(与党の政治家や高級な役人)による責任が大きいのではないだろうか。それらの責任があるが、それが果たされずに、無責任体制となっている。

 参照文献 『「課題先進国」日本 キャッチアップからフロントランナーへ』小宮山宏

とてもではないが、現実主義とはとうてい言えそうにない、首相による、年金はこれから先も大丈夫だ、の発言(無責任な楽観論ではないだろうか)

 年金だけでは老後は暮らせず、二〇〇〇万円を貯めることがいる。金融庁によるこの報告書を、与党はないことにしようとしている。そうしたところが、じっさいにはさらにお金がいるということで、三〇〇〇万円はいるということがいまわかったという。

 年金はたしかな財政の土台があるので、これから先については大丈夫だ、といったことを首相は言っていた。首相がこう言っていることについては、そうだなというふうにうなずくことができづらい。政治家によるカタリ(騙り)そのものだということではないだろうか。

 先の日曜日には、年金返せ、とうったえるデモが行なわれていた。いままでに支払った年金の保険料を返せ、ということだ。また、老後に暮らせるだけの年金を払え、ということも言われていた。

 デモが行なわれたさいに、そこで言われていたことは、その訴えそのものがどうかということよりも、デモが行なわれたことそのものに意味がある。首相が言うように、年金は大丈夫だということだと、年金について批判として見ることをうながすことにはならない。そのまま放っておいても大丈夫だろう、ということになってしまう。

 そのまま放っておいても大丈夫だということで、話題にのぼることがないのではなくて、年金をふくめてその他の社会保障の制度についてを、きちんと話題にのぼらせて、表面化してほしいものだ。それで、制度の抜本の見直しを試みてみるのはどうだろうか。

 年金を含めた社会保障の仕組みは、いまのように、社会の中で非正規ではたらく人が四割以上にものぼる、ということがくみ入れられていないものだとされる。みんなが原則として落ちこぼれることがなく、経済は成長をつづける、ということで仕組みがつくられているという。

 いまは、格差が進んでいるし、貧困がおきている。貧困というのが、けっして他人ごとではなくなっているのだ。貧困が増えて広がっていることが、その人たちだけのことにとどまらず、広く社会の人々に、不安をもたらしている。部分だけではなくて、全体に波及しているのだ。

 原則としてみんなが落ちこぼれないで、経済は成長しつづける、とは行かなくなっている。理論で言えば、年金その他の社会保障をなりたたせるための仮定が崩れているのだ。与党の政治家や高級な役人がかつてにおいて想定していた仮定の少なからぬ部分がもはや崩れているのに、なぜ仕組みをそのまま正しいものとして保たせようとするのかが、個人的には納得できづらい。

 参照文献 『年金は本当にもらえるのか?』鈴木亘(わたる) 『財政危機と社会保障鈴木亘 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『損得で考える二十歳(はたち)からの年金』岡伸一

他人さまの子どもを殺しかねない子どもと、その親とにおける、大善と小善(社会の決まり)と、大悪と小悪

 無職や、引きこもりの子どもが、他人さまの子どもを殺しかねない。それで、その子どものことを、親が殺す。そうした事件がおきた。この親が言うには、子どもが他人さまの子どもを殺しかねないので、未然にそれを防ぐという動機があったという。この親にたいして、芸能人をはじめとして、同情する声は少なくない。

 この事件について、この事件の具体のことから、離れて見てみることがいるような気がする。離れて見てみることができるとすると、この事件の親のやったことにたいして、同情するとか、しないとかということではなくて、構造の問題が見えてくるかもしれない。

 構造の問題としては、報道による二次被害がある。自分の子どもが他人さまの子どもを殺すということになったら、親は報道によって二次被害を受けることになる。親の責任みたいなことが持ち出される。報道によって、親の人権が侵害されるのだ。

 たとえ子どもとはいっても、二〇歳をすぎているのなら(もしくは一八歳くらいから)、親に監督責任があるとは言えないし、親は親、子どもは子ども、ということになるだろう。親が子どもにまちがった行動を具体としてけしかけたのであればともかく、そうではないのなら、親が子どもを制御することはできないことだろう。

 問題をかかえた家庭ということがあるとすれば、それはその家庭が悪いだけではなくて、社会の問題として見られる。家庭というのは、安全であるべきところではあるが、その機能が不全であれば、機能不全家庭となる。家庭の中は、無法地帯や危険地帯になりやすい。

 定職につかない(つけない)で、無職だったり、引きこもりだったりするのは、それをもってして悪いということは必ずしも言えないことだ。働くことすなわち善とは言えない。たとえ働いていても、一部の政治家や高級な役人のように、利権をむさぼったり汚職をはたらいたり不正をおかしたりすることはまれではない。

 他人さまの子どもを殺すということになれば、それは他者に危害を加えることだから、悪いことであるのはまちがいがない。それは大悪だ。その大悪を未然に防ぐために、自分の子どもを殺すということだと、それは善ということにはなりそうにない。

 自分の子どもが大悪をしでかしかねないということで、親が子どもを殺すということになれば、それはそれで悪ということになるだろう。自分の子どもが他人さまの子どもを殺すという大悪を未然に防ぐことは、善であることはたしかだが、その善をなそうとするために、(たとえ自分の子どもであっても)人を殺してはならないという善をないがしろにすることはよいことではないだろう。本末転倒にならないように気をつけることがいる。

 親と子の関係ということだけではなくて、それをとり巻く社会の中には色々な問題があるから、親だけにや、子だけに、責任をなすりつけるわけには行かない。社会の中に色々なおかしさがあるのだし、報道が二次被害の人権の侵害をおかすということははなはだしい問題だ。

 参照文献 『「本末転倒」には騙されるな 「ウソの構造」を見抜く法』池田清彦 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『すべての罪悪感は無用です 自分のために生きられないあなたに』斎藤学(さとる) 木附(きづき)千晶 『論理的な思考法を身につける本』伊藤芳朗(よしろう)

NHK による屋内語の虚偽意識のばらまき(時の権力への迎合)

 日本語は屋内語になりやすい。そう言われている。屋内語とは、戦時中の大本営発表のように、日本の国内でしか通じないものを言うことだ。屋外では通じないものである。

 いまの NHK は、いまの首相による政権にべったりとくっついてしまっている。それによって、屋内語による虚偽意識(イデオロギー)をばらまいてしまっている。

 NHK がやるべきなのは、屋内語をできるだけばらまかないようにして、屋外語の視点をもつことではないだろうか。国内でしか通じず、国外からの視点からすればすぐにぼろが出てしまうようなことを、できるだけ言わないようにすることがいる。

 屋内語による内の視点ばかりにかたよっているのはのぞましくない。できるだけ報道の内容が偏向しないようにするためには、屋外語による外の視点をもつようにして、日本の国内だけで通じればよいというのではなくて、日本の国外においても通じるように、NHK にはまともな志をもってほしいものだ。

 いまの首相による政権という、時の権力からしかられないのならそれでよい。NHK はそういうふうに、および腰になっているように見うけられる。時の権力を持ち上げるようなことを報じているのだ。そうであることによって、屋内語による国内の報道と、屋外語とが、大きくずれてしまっている。屋外語である海外の報道のほうが正しいことが少なくないのだ。

 屋内語に大きく偏りがちなのが NHK のあり方だ。NHK がもつ正しさのものさしが狂っていることをあらわす。時の権力にしかられるのを避けることによって、正しさのものさしが狂ってしまう。正しさのものさしができるだけ狂わないようにするためには、権力にたいする批判の視点が欠かせない。

 NHK は形だけは報道をしているつもりなのかもしれないが、その報道の内容や価値がどうかということが大切だ。内容や価値はどうかというと、その質は高いということは言えそうにない。

 質が高いとは言えないのは、NHK が、正しく考えるとか、正しい報道を行なうという問題意識を持っていないようだからだ。受信料というお金を視聴者からもらっているのだから、少しくらいは、正しく考えるとか、正しい報道を行なう、という問題意識を持ったらどうだろうか。

 正しく考えるためには、当然のことながら、権力への批判の視点をもつことが欠かせない。あくまでもそれは必要条件ということであって、十分条件ではないだろうが。また、時の権力がよいか悪いかという一面性ではなくて、二面性であってもよい。〇か一かのデジタルではないということだ。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄

安定と権威主義と、不安定と民主主義(政権の交代)

 政権が交代して、残念ながら政治が不安定になった。それであの、民主党政権が誕生した。首相はお決まりのように、旧民主党のことを悪夢だと言っている。

 首相が旧民主党のことを悪夢のようだとくり返し言うのは、個人としてはうなずけないものだ。政権の交代となって、政治が不安定になったというのだが、不安定になったから悪いとはいちがいには言うことはできない。

 政権が交代して不安定になったかどうかはそもそも定かではないが、かりに不安定になったとしても、それだからといって悪いということには必ずしもならない。不安定であるというのは、活性化していることでもあるのだ。安定しているというのは、不活性であることをあらわす。

 安定しているとはいっても、それは表面のことにすぎず、いわば、嵐の前の静けさだということがある。これは準(メタ)安定の状態とされるものだ。ほんとうの安定とは似て非なるものだ。安定と準安定とをいっしょくたにするのはふさわしいこととは言えないし、不安定なのをすなわち悪いことだというのも適したことではないだろう。

 参照文献 『安部公房全集 第十一巻』安部公房 『逆説の法則』西成活裕

年金一〇〇年安心と、(すべてのではないかもしれないが)国民の毎日や毎月の生活の苦労や負担や大変

 年金は一〇〇年安心だ。与党の政治家や高級な役人はそう言う。一〇〇年安心というよりも、時間軸を短くして、国民の毎日が苦労だとか大変だとか、毎月が苦労だとか大変だというのを何とかすることがいる。

 すべての国民が苦労や大変な目にあっているというのではないかもしれないが、毎日の労働や、毎月の経済の負担が重くのしかかっている国民は少なくはないだろう。

 金融庁の高級な役人は、国民にたいして、年金だけでは生活ができないから、二〇〇〇万円を貯めるように、という報告書を出したとされる。この報告書は、与党である自由民主党にとって都合が悪かったということで、報告書そのものをなかったことにしようとしている。

 金融庁の報告書をめぐるてんまつでは、what(なに)はあっても、why(なぜ)がないことがまずいのではないだろうか。年金だけでは国民が生活して行くのにお金が足りないとか、二〇〇〇万円を貯めろとかというのは、what(なに)ではあっても、why(なぜ)ではない。なぜ、の視点が欠けているのだ。

 なぜ、の視点で、どういうわけでそうなのかというのを深く掘り下げて行くことがいるだろう。そうしてみると、これまでの与党の政治家や、高級な役人がしでかしてきた、いくつもの失敗やでたらめがあるはずだ。というのも、年金の制度というのは、高級な役人がつくったものなのがある。そこにある欠陥や失敗を、あたかもないことであるかのようにしたい思わくがあるという察しがつく。

 国民にたいして、年金についての、納得が行くような説明をしてほしいものだ。そのためには、what(なに)だけではきわめて不十分なのであって、どういうわけでそうなのかといううしろ向きのふり返りを十分にして、why(なぜ)で深く掘り下げて行くようにすることがいる。

 参照文献 『「Why 型思考」が仕事を変える』細谷功(ほそやいさお)