年金についてのデモと、馬鹿と税金どろぼう

 年金で老後を暮らすには、二〇〇〇万円ほど足りない。さらにそれが増えて、三〇〇〇万円ほど足りないことがわかった。金融庁の報告書ではそう言われているという。

 年金について、デモが行なわれた。これまでに支払った年金(の保険料)を返せとか、暮らせるだけの年金を払え、というふうにうったえられていた。これについて、デモを行なった人たちにたいして、馬鹿だとか税金どろぼうだ、という批判がツイッターのツイートで投げかけられていた。

 デモを行なった人たちに向けて、馬鹿だとか税金どろぼうだというのは、修辞学で言う、人にうったえる議論(対人論法)の虚偽ではないだろうか。馬鹿だとか税金どろぼうだとか、そういうふうに決めつけているということだ。馬鹿や税金どろぼうという箱の中に、人を入れてしまっている。

 デモを行なった人たちには色々な人がいるのだから、そのすべてをまとめていっしょくたにして、馬鹿だとか税金どろぼうだとかと言うのはふさわしいことではないだろう。

 たとえば、貧困で低賃金の労働で生活している人がいるとしよう。そのワーキング・プアの人がデモに参加していたとして、なぜ馬鹿だとか税金どろぼうと言われないとならないのだろうか。正直に言ってそこがちょっとよくわからない。むしろ、資本主義の社会において、搾取や抑圧や構造的暴力を振るわれつづけて被害を受ける側なのではないだろうか。

 年金についてのデモということで、年金だけに限っていえば、年金の保険料を支払いつづけて、もし長生きすれば、支払いと受給とのかね合いで、得をするかもしれない。それとはちがい、早死にすれば、支払いだけで終わるので損(払い損)だ。これは、年金の仕組みからくるものなので、言ってもしかたがない部分はある。

 得か損かということでは、ほかには、世代間で不公平になってしまうのがあるし、必ずしも合理の仕組みによっているとは言えそうにない。支払いの期間は延びて行き、受給の期間は遠ざかって行く。まるでゴールポストが動くかのように。不安や心配をおぼえずにいられそうにない。

 効率性や公平性の点で、年金をふくめてその他の社会保障の制度について、批判として見るようにして、問題性を明らかにするのは益になることだろう。非効率や不公平になっているところが少なからずあるということだ。

 低賃金で貧困の人には、負担に逆進性がはたらく。生活の中で、経済において重みが大きい。馬鹿だとか税金どろぼうだとかというのは、当たらないことだろう。馬鹿だとか税金どろぼうだと言うのであれば、出口が見えない中で、低賃金で貧困の生活をしつづけてみたら、その立ち場(ワーキング・プアの立ち場)のありようが少しはわかるだろう。

 年金の仕組みが、効率性と公平性を十分に満たしているのなら、不満はおきづらい。そうなっていないから、不満がおきて、デモがおきることになるのだととらえられる。デモを行なった人にたいして、馬鹿だとか税金どろぼうだということが言われたが、かりにそうなのだとしても、自分たちの主張をしているだけではなくて、誰かのことを代弁している可能性もある。代わりに代弁しているということだ。

 一つの判断や仮説として、まちがっているところがあるのなら、それにたいして反論や批判はあってよいことだ。デモで言われていたような、具体の主張の内容からはやや離れてしまうが、年金の制度や社会保障の制度は、総体として、問題性がまったくないとは言えそうにない。その問題性を、ないことにするのではなくて、あるものとしてとり上げるのは、益になるのがある。

 いまの政権は、年金は安心だとか、財政として大丈夫だと言うのだが、これは政治家によるカタリ(騙り)なのがあるから、そのままうのみにはできづらい。いまの政権が言うことは、最終の結論というのではなく、判断や仮説や見解にすぎない。それらを批判として受けとることがいる。

 いまの政権や高級な役人が言うことの、信ぴょう性や信頼性や妥当性や説得性に、かなりけちがつくことがあることは少なくない。なにせ、公の情報や数字の改ざんをしているくらいだから、カタリだらけになってしまうのは無理もないことだ。

 参照文献 『年金は本当にもらえるのか?』鈴木亘(わたる) 『財政危機と社会保障鈴木亘 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『損得で考える二十歳(はたち)からの年金』岡伸一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『政治家を疑え』高瀬淳一