他人さまの子どもを殺しかねない子どもと、その親とにおける、大善と小善(社会の決まり)と、大悪と小悪

 無職や、引きこもりの子どもが、他人さまの子どもを殺しかねない。それで、その子どものことを、親が殺す。そうした事件がおきた。この親が言うには、子どもが他人さまの子どもを殺しかねないので、未然にそれを防ぐという動機があったという。この親にたいして、芸能人をはじめとして、同情する声は少なくない。

 この事件について、この事件の具体のことから、離れて見てみることがいるような気がする。離れて見てみることができるとすると、この事件の親のやったことにたいして、同情するとか、しないとかということではなくて、構造の問題が見えてくるかもしれない。

 構造の問題としては、報道による二次被害がある。自分の子どもが他人さまの子どもを殺すということになったら、親は報道によって二次被害を受けることになる。親の責任みたいなことが持ち出される。報道によって、親の人権が侵害されるのだ。

 たとえ子どもとはいっても、二〇歳をすぎているのなら(もしくは一八歳くらいから)、親に監督責任があるとは言えないし、親は親、子どもは子ども、ということになるだろう。親が子どもにまちがった行動を具体としてけしかけたのであればともかく、そうではないのなら、親が子どもを制御することはできないことだろう。

 問題をかかえた家庭ということがあるとすれば、それはその家庭が悪いだけではなくて、社会の問題として見られる。家庭というのは、安全であるべきところではあるが、その機能が不全であれば、機能不全家庭となる。家庭の中は、無法地帯や危険地帯になりやすい。

 定職につかない(つけない)で、無職だったり、引きこもりだったりするのは、それをもってして悪いということは必ずしも言えないことだ。働くことすなわち善とは言えない。たとえ働いていても、一部の政治家や高級な役人のように、利権をむさぼったり汚職をはたらいたり不正をおかしたりすることはまれではない。

 他人さまの子どもを殺すということになれば、それは他者に危害を加えることだから、悪いことであるのはまちがいがない。それは大悪だ。その大悪を未然に防ぐために、自分の子どもを殺すということだと、それは善ということにはなりそうにない。

 自分の子どもが大悪をしでかしかねないということで、親が子どもを殺すということになれば、それはそれで悪ということになるだろう。自分の子どもが他人さまの子どもを殺すという大悪を未然に防ぐことは、善であることはたしかだが、その善をなそうとするために、(たとえ自分の子どもであっても)人を殺してはならないという善をないがしろにすることはよいことではないだろう。本末転倒にならないように気をつけることがいる。

 親と子の関係ということだけではなくて、それをとり巻く社会の中には色々な問題があるから、親だけにや、子だけに、責任をなすりつけるわけには行かない。社会の中に色々なおかしさがあるのだし、報道が二次被害の人権の侵害をおかすということははなはだしい問題だ。

 参照文献 『「本末転倒」には騙されるな 「ウソの構造」を見抜く法』池田清彦 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『すべての罪悪感は無用です 自分のために生きられないあなたに』斎藤学(さとる) 木附(きづき)千晶 『論理的な思考法を身につける本』伊藤芳朗(よしろう)