日本学術会議の人の選び方と、多様性と多元性―政権には(理想の)多元性がいちじるしく欠けている

 多様性は大事だが、それと似たようなものとして多元性がある。与党である自由民主党菅義偉首相は、日本学術会議には多様性がないと言っているが、そのことについて多元性を持ち出してみることができる。それを持ち出してみられるとすると、どういったことが言えるだろうか。

 多様性が会には欠けているのだと菅首相は言いつつ、多元性を損なわせてしまっている。なぜ多元性を損なわせてしまっているのかといえば、政権が会について排他的なことをしているためである。政権にとって気に食わない学者を会の中からとり除こうとした。

 理想論と現実論で見てみられるとすると、もともと会のあり方は理想といえる多元性のあり方になっているのだとは言えそうにない。理想といえるあり方にはなっていなくて、せいぜいが包括のあり方にとどまっていた。会の中に政権にとって気に食わない学者がいたのだとしても、お目こぼしのようなかたちでしぶしぶ認められていた。このお目こぼしでしぶしぶ認めることすらもこばみ、排他的なことを行なったのが政権だ。

 もともと理想といえる多元性のあり方ではなくて、せいぜいが包括のあり方にとどまっていたのが、さらにより悪化して排他的な方向に進んでいってしまっている。その方向に進むことをうながしているのが政権の排他の行ないだろう。

 政権が会にたいして行なっている排他の行ないを改めて、せめてもともとの包括のあり方にもどす。それでそこからさらによりよくして行くために理想の多元性のあり方になるようにして行く。よりよいあり方にして行くためには、政権がやっていることや言っていることが正しいのだとする官僚主義の無びゅう性によるのではなくて、まちがいを含んでいるものだとする可びゅう性のあり方にすることがいる。人間は合理性に限界をもつ。

 どのようにしたら理想の多元性のあり方になるのかを探るうえで、排除(exclusion)と包摂(inclusion)の二つの方向性があげられる。この二つの方向性のうちで、政権が排除の行ないをしてしまうと理想の多元性から遠ざかって行く。政権による味方と敵の友敵理論の図式がもち出される。味方と敵とに分けて、そのあいだに分断線を引く。そうした遠近法(perspective)がもち出される。

 排除と包摂の二つの方向性がある中で、政権がやっていることは排除を強めることであり、それによって政権の虚偽意識がどんどん強まっている。その強まりを少しでも弱めて行くためには、排除ではなくて包摂をして行く。政権がもつ遠近法で政権にとって遠いものを遠ざけて近いものを近づけるのだと、政権による排除の行ないが行なわれるだけになる。

 排除が行なわれて政権の虚偽意識がどんどん強まって行く。そこには理想の多元性による抑制と均衡(checks and balances)がはたらいていない。それがはたらいていないがゆえにまちがった方向に進んでいってしまいやすい。効率性は高いが適正さがなくなって行く。政権の虚偽意識がどんどん強まって行かないようにするために理想の多元性による抑制と均衡をはたらかせるようにしたい。そうしないと国の全体がどんどんまちがった方向に進んでいってしまいかねない。

 より包摂をうながして行き、理想の多元性のあり方に近づいて行くためには、政権がもつ遠近法を逆転させることが求められる。遠いものを遠ざけて近いものを近づけるだけではなくて、それを逆転させるようにして、遠いものを近づけて行く。これはよき歓待や客むかえ(hospitality)だ。

 政権は会の中に多様性が欠けていて、多様性が大事だと言いながら、理想の多元性からどんどん遠ざかってしまっていて、しぶしぶ認める包括ですらなく、それすらも壊されてしまい、排他のあり方になっていっている。理想の多元性のあり方を目ざして行くために、いったんもともとの包括のあり方にもどすべきであり、そこからさらに多元性によってまっとうな議論をし合うことが行なわれるようにして行きたい。いまは政治における議論が死んでしまっているが、そのもとは政権が排他の行ないをしていることにあり、政治の多元性(ポリアーキー polyarchy)から遠ざかっていることから来ているのだと見なしたい。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『政治学川出良枝(かわでよしえ) 谷口将紀(まさき)編