首相へのひぼうや中傷―公人の自覚や覚悟の欠如

 首相にたいして誹謗中傷するのはよくない。首相を悪く言うのはいけないことだとツイッターのツイートでは言われていた。

 首相を悪く言うような誹謗中傷はよくないことなのだろうか。これについては、首相の名誉や不名誉が関わってくる。

 首相は政治家であり、政治家は公人だ。いくら世襲制世襲三バン(地盤、かんばん、かばん)を引きついで政治家になったのだとはいっても、自分の意思によって政治家になっているのだから、自分で公人になることを選びとっている。

 公人は自分の名誉をあるていど犠牲にすることがいる。制限を受ける。国の権力は暴力をもつのがあるから、それへの監視をするために、公人の名誉の優先度は下がる。公人の名誉よりも表現の自由のほうがより重んじられるほうがよい。

 不名誉がいやで名誉を重んじたいのなら、自分で公人になるのを止めたらよいのがある。公人である首相はあるていど人から悪く言われるのを覚悟していなければならない。よく言われるのだけをよしとするのは公人のあり方にそぐわないものであり、覚悟がないことになる。とうぜん引き受けるべきことを引き受けていない。

 首相は公人だから、権力の監視が行なわれるために、あるていど人から悪く言われることを引き受けないとならないが、その許容される範囲がせまくなってしまっている。その範囲がせまくなっているのは、首相に公人である自覚がとぼしく、自分の名誉を重んじて不名誉をいやがっているからだろう。

 首相のことを悪く言ったり批判したりすることが許容される範囲がせばまると、国家の公が肥大化して行ってしまいかねない。個人の私が小さくなって行く。個人の私よりも国家の公のほうがより優先されることになり、国家の公の肥大化が止まらなくなるおそれがある。

 政治の権力を悪く言ったり批判をしたりすることの許容の範囲がとても小さかったのが戦前や戦時中のあり方だ。よしとされる発言がきわめて限定されていた。発言の許容の範囲がせまいこともあって国家の公が肥大化して行って、戦争につっ走って行って失敗して敗戦することになった。それでそのあり方が見直されて、国家の公が肥大化しすぎないようにして、個人の私を重んじようということになった。国家ではなくて個人に価値を置く。

 戦前や戦時中のような国家の公の肥大化を首相やいまの政権はもくろんでいるのだというのがある。そのもくろみを首相や政権をふくめて与党である自由民主党はもっていて、個人の私を軽んじる方向に向かおうとしている。その方向性が見てとれるのが、首相が自分の名誉を重んじて不名誉をいやがり、公人としての自覚が欠けている点である。

 政治の権力への監視が行なわれて、権力が暴走しないようにして、社会の中に多元性があるようにするためには、発言の多元性がいる。首相や政権を悪く言ったり批判したりすることを含めて、許容される範囲が広いほうがよい。それをせばめてしまうと、多元性が損なわれることになり、政権に都合の悪い発言がしぶしぶお目こぼしの形で認められるという消極のあり方になったり、もっとひどくなれば積極に排斥されたりすることになる。

 政権に都合の悪い発言であっても、排斥されるのではなく、消極に認められるのでもなく、きちんと認められてまともに受けとめられるようであったほうが開かれたあり方になる。いまは開かれたあり方ではなく閉じたあり方になってしまっているから、それが改まればよい。

 参照文献 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)