音楽家や芸能人の政治の発言はよいことなのかどうか―舞台と客席

 音楽家や芸能人は、政治の発言をしてはいけないのか。このことは、政治に舞台と客席があるさいに、舞台に上がることができるのか、それとも客席にいなければならないのかのちがいだと言える。この舞台と客席になぞらえるのは政治学者の岡田憲治(けんじ)氏による。

 音楽家や芸能人が政治の発言をしてはいけないのであれば、政治で舞台に上がってはならず客席にいなければならないことをあらわす。

 これまでに音楽家や芸能人は政治で舞台に上がったことはないのかというと、そうは言えそうにない。思いきり舞台の上に上がっていたことがこれまでにある。

 一九六〇年代の後半から一九七〇年代には音楽でメッセージ・ソングがはやっていたという。音楽の曲の中に政治などの思いをこめてそれを演奏する。世界においてそれがはやった。

 一九六〇年代の後半くらいの時期には、世界において反戦運動などが高まっていたことがあり、政治への参加がしやすいのがあった。音楽ではメッセージ・ソンクが多くつくられて、政治を含めた思いがあらわされた。

 一九六〇年代の後半くらいの時期に生きていたわけではないから想像の域を出るものではないが、そのさいに世界において音楽家によってメッセージ・ソングがつくられたのは、政治などの思いをこめる必要性があって、それが許容されていたことによる。それで音楽家が政治で舞台の上に立つことができたのである。

 音楽家や芸能人が政治で舞台の上に上がることはあるし、それが思いきり行なわれていたときがこれまでにあった。そのさいには、それが必要だったことがあり、許容されることになった。その許容の範囲がせばまってしまうと、必要性があるときであっても、政治で舞台の上に上がるなとされてしまう。舞台の上に上がるべきときであっても上がれなくなる。客席にいつづけなければならなくなる。

 政治ではお客さんとして客席にいさせられるよりも、できるだけ舞台の上に多くの人が上がるほうがよいのがある。みんなが税金を払っているのだから、舞台の上に上がることが許されてよいものだろう。税金はしっかりと取られるが、舞台の上に上がってはいけなくて、客席にお客さんとしていさせられるのでは、政治がよくなることは見こみづらい。

 政治で客席にいさせられるのではなく、舞台の上に参加することが大切であり、参加したい人が自由に参加できるように公共性が開かれていたほうが、閉じてしまうのを避けやすい。理想としてはそうだが、参加することの門戸が閉じてしまっているのがあり、ほんらい参加することが許されて、舞台の上に上がることができるところが、それができずに客席にお客さんとしていさせられてしまっているために、すくい上げられるべき声が十分にすくい上げられていない。

 舞台と客席とのかき根がもっと低くなって、そこを越えられるようであったほうが、一部の愚かな政治家や役人に政治が牛耳られてしまうのを少しは防ぎやすくなるだろう。舞台と客席が固定化しすぎると立ち場が入れ替わらなくなることから負の相互作用がはたらいてしまう。

 日本の政治の舞台は上に上がれる人が限られてしまっている。世襲制によっているためだ。舞台の上に上がる参入障壁が高い。退出の障壁もまた高い。舞台の上の空気が入れ替わりづらく、新しい空気が入りづらくなっている。空気がよどんでいる。空気のよどみを何とかするには、世襲制がとられないようにして、参入障壁がもう少し低くなったらよい。

 政治の舞台は一部の愚かな政治家や役人のためにあるものではなくて、国民のためにあるものなのだから、国民の一人ひとりがほんらいは漏れなく舞台の上に上がれるようでなければならないはずである。このさいの国民とは、日本の国籍をもつことに限られず、もっと広い意味でのものである。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治 『反戦平和の手帖 あなたしかできない新しいこと』喜納昌吉(きなしょうきち) C・ダグラス・ラミス 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『世襲議員 構造と問題点』稲井田茂