自粛がいることと、原則論と例外論―例外の許容の度合い

 自粛をしていないで営業している店に、火をつけるぞとおどす。そこまでは行かなくても、営業している店にいやがらせを行なう。そうした例がおきていると報じられている。

 新型コロナウイルスへの感染が広がっている中で店は自粛を求められているのはあるが、これを原則論と例外論で切り分けて見てみたい。自粛を求めるのはこのうちで原則論に当てはまる。原則にはえてして例外がつきまとう。

 車の運転でいうと、法定の制限速度をきっちりと守っている人はだれもいないだろう。多かれ少なかれ速度の制限を破っている。破ることによってむしろ車の流れがうまく行く。そういうところがある。あまり破りすぎると警察に捕まってしまうのはあるが。

 国の財政では、国が借金をするために赤字国債を発行することは原則として決まりで禁じられている。これの例外に当たるのは将来の益になる建設国債だけだとされているが、これはなしくずしになってしまっていて、国の財政は赤字で借金だらけである。借金がたまりにたまっていて首が回らない。国の借金を返す見通しが立っていない。

 国の財政の借金についてはこのほかにも色々な見なし方があるから、借金がたまるのが悪いというのだけが正しいのではないかもしれない。その中できびしめに(悲観論で)見なすとすれば、日本の国の財政はそうとうなぜい弱性をもちはなはだ危険だ。この財政のぜい弱性や危険さは、過去の自由民主党の長期政権の失政によっているのが一つにはある。税金の無駄づかいや見通しの甘さなどだ。

 原則論で原則に当てはまるものがあるとしても、それが絶対に非の打ちどころがないほどに正しいのだとは言い切れそうにない。原則論を絶対化してしまうと、厳格主義(リゴリズム)におちいることになり、人間としての自由さが失われて息苦しくなることがある。

 自粛することが求められているのが原則としてあるのだとしても、それに例外があったら絶対に駄目だとは言い切れず、どこまで例外が許容されるのかの度合いがある。その度合いが〇でまったく無いのであれば、原則論が一〇割なあり方だ。白かさもなくば黒かだ。二分法である。

 二分法ではなくて連続によるあり方であれば、白か黒かだけではなくてその中間の灰色がある。中間があるのなら、原則論が一〇割なのではなくて、そこに例外論として許容することができる度合いがいくらかはあることになる。あまりその度合いが多すぎると、原則論の意味あいが失われて、原則であることが形骸化する。

 憲法なんかでは原則論の原則の意味あいが失われてしまっているところがあるから、やっかいなことになっている。それについては、憲法では、九条が原則論だとすると、その例外論として前文や十三条を持ち出せるのだと憲法学者の木村草太氏は言っていた。

 憲法の九条の例外として前文や十三条を持ち出せることから、国民を守るための実力である自衛隊は、必要最小限度において許容される。必要最小限度性がつねに政治には問われつづけることになり、それが歯止めの役を果たす。歯止めの役を果たすとはいっても、それは政治が憲法を守るまともさをもっていればの話ではあるだろうが。

 人によって色々な見なし方があるだろうから、いちがいにこうだとは言えないものではあるだろうが、そのちがいがおきてくるのは、憲法でいえば、原則論を一〇割として厳格主義で見るのがまずある。二分法の白か黒かのあり方だ。そうではなくて例外論があるのだとして、例外として許容できる度合いがあるのだとすると、それがどれくらいあるのかを見て行ける。これは白と黒のあいだの中間の灰色をとるあり方だ。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『国債・非常事態宣言 「三年以内の暴落」へのカウントダウン』松田千恵子