桜を見る会の、内包(質)と外延(量)―内包つまり質が、いまの時の政権からより悪く変化したうたがいがある

 桜を見る会は、さかのぼれば昭和二七年(一九五二年)から行なわれてきたものだ。そのころから引きつづいて行なわれてきたものだから、会を引きつづけてやって行くことがふさわしいことなのだろうか。

 桜を見る会は、もともとが、いうなればぼやのようなものだった。ぼやというのは言い方が悪いかもしれないが、大した意味あいを持った会ではなかった。必要性に乏しいものだったのである。

 もともとがぼやのようなものだったものを、本格的な火事にまでしてしまったのが、いまの時の政権のやったことだ。そう見られるのがある。改めて見てみれば、そこにまったく非がないとは言えなかったものを、大きな非(火)があるものにしてしまったのがいまの時の政権である。

 改めて見てみれば、大した意味あいはなくて、必要性に乏しいものだったのだから、そこに多少の非はあった。それはいわばぼやのようなものであって、ぼやのままにとどめておけば、会を引きつづきやって行くことができたかもしれない。それが中止にまでいたったのは、いまの時の政権が、もともとがぼやのようなものだった会を、自分たちで悪用して、拡大させて、本格的な火事にまでしてしまったことによる。

 ぼやのままであったときの悪さと、本格的な火事にまでしたことの悪さは、分けて見るようにしたほうがよいものだろう。それらをごっちゃにして、ぼやのときの悪さと、そのぼやであることを悪用して本格的な火事にまでしたことの悪さをいっしょにしてしまうのは、適した見なし方だとは言いづらい。ぼやであったものを、本格的な火事にした発端は、いまの時の政権にあると見られる。ぼやが出ていたのだから、できればそれに気がつくべきだったし、自分たちから自主的にやめるまたは見直すようにしたほうが、賢かった。じっさいにはその反対のことをしてしまった。

 参照文献 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩