張り合ってもしかたがないというのではなく、やりとりをし合う責任(義務)があるから、それをしないのは無責任である

 首相が挑戦者と張り合ってもしかたがないじゃないか。自由民主党の総裁選において、首相はそう言っているという。首相が挑戦者と張り合ってもしかたがないじゃないかということだが、これは挑戦者のことを尊重していないで、下に見て軽んじていることを示しているものだろう。非対等に見てしまっている。

 首相と挑戦者といっても、お互いに人どうしである。人という点では共通しているものである。人は誰でもまちがいをおかす。それは首相であってもまぬがれるものではない。超人というわけではないのだから、首相と挑戦者で、お互いに人どうしとしてじかにやり合うことがあるのがのぞましい。

 ボクシングの試合なんかでは、挑戦を受けて立つ者が勝つとはかぎらないし、挑戦する者が負けるとはかぎらないものである。それと同じように、首相が挑戦者よりも正しいとはかぎらず、挑戦者が首相よりもまちがっているとは言い切れない。首相がすべての国民の意思を反映しているとは言いがたく、そこからこぼれ落ちるものをすくいとっているのが(首相にたいする)挑戦者だと見られる。

 首相は挑戦者と張り合わなくてよいということにはならず、挑戦者からやられることをいとわずにやり合うのでないと、競争性がとられない。競争では勝つことよりも負けることの方により意味があるだろう。勝つか負けるかの結果よりも、過程で多くのやりとりをし合うのを重んじるようにする。ずるをして勝ってもほとんど意味はないし、国民にとっての益にはならない。痛みなくして得るものなし(no pain,no gain)である。