都知事の入院と日本の社会の病理

 東京都では、都知事がいま病院に入院している。小池百合子都知事は疲れが積み重なったことで入院することになったのだという。

 都知事が入院したことについて、与党である自由民主党財務相は、自分でまいた種でしょうが、と言ったという。

 都知事が病院に入院していることについてをどのように見なすことができるだろうか。そのことについてを財務相は自分でまいた種だと言っているが、あらためて見ると、与党である自民党はこれまでにたくさんの悪い種をまきつづけてきている。

 財務相にかぎって見てみても、これまでにいろいろな失言をしていて、悪い種をまきつづけている。おかしなことをしつづけてきている。それがなぜか許されてしまっているのだ。きびしく見れば、日本の社会にとって害をなすような悪い種をまきつづけてきているのが自民党だろう。そのいっぽうで、よい種をどれだけまいてきているのかといえば、それはゼロとはいえないまでも、かなり少ないと言わざるをえない。

 これまでに日本の社会や政治に害をなすような悪い種がたくさんまかれてしまっている。これは日本の国が自分たちでやったことだから、日本の国にそのままはね返ってくることになり、日本の国に悪くはたらく。これまでにまかれたたくさんの悪い種から芽が出て、日本の国にわざわいする。そうしたことがおきるかもしれない。

 日本の政治では、これまでによい種をまくことがほとんど行なわれていないから、よい種からよい芽が出てくることはあまりのぞめない。よい種からよい芽が出ることをはばみつづけてきている。よい種からよい芽が少しでも出てきたら、それをすかさずつみ取ってしまう。よい芽が出るのをすかさずつぶす。よい種が育ちづらくなっている。悪い種から悪い芽が出て、それらがはびこることだけがうながされている。

 都知事が病院に入院したことから見てとれるのは、日本が疲労社会になっていることだろう。休めばとれるようなさわやか疲労ではなくて、休んでもとれないようなぐったり疲労におちいる。

 近代では忙しさがよしとされる。商売(business)とは忙しさ(busy)によるものだ。忙しいこと(negotium)がよしとされて、ひま(otium)やゆとりは否定される。学校(school)は学問を営むところだが、学問はひま(schole)やゆとりがないとできないことだ。

 忙しさがよしとされるのが近代であり、そこからひまやゆとりが悪いものだとされがちだ。ひまやゆとりがないと学問はできづらいのがあり、学問の営みが否定されることになる。近代の忙しさによるあり方を批判するためにも、学問の営みを軽んじないようにして重んじて行くことが必要だろう。

 都知事は上に立つ政治家であり、上に立つ政治家である以上は、できるだけ病気にならないようにすることがいり、病気になったからにはそれをできるだけ公にしめすことがいるものだろう。私人ではなくて上に立つ公人であれば、病気になったら、さしさわりがないかぎりはそれについての情報を外に示すようにすることがいる。病気についてはいろいろな見なし方ができるが、きびしく見れば、公人である上に立つ政治家にはしっかりとした体調管理がいる。

 都知事が病院に入院していることは、ひろく日本の社会が疲労社会におちいっていて、社会の病理が映し出されているのがあるかもしれない。疲労がたまりやすくなっている。社会が生の欲動(eros)ではなくて死の欲動(thanatos)にかたむく。社会の中に安心と安全や正義と公正や自由が失われている。

 社会が病んでいて死の欲動にかたむいているのがあるとして、それを治して行くためには、疲労社会であるのを改めて行く。人々がぐったり疲労にできるだけおちいらないようにして行く。非人間的な社会のありようを改めて行く。憲法立憲主義でいわれている個人の尊重によるようにして、一人ひとりの個人の私が重んじられるようにすることがいる。立憲主義がこわされると社会が死の欲動にかたむきやすくなるから、立憲主義をしっかりと守るようにして、生の欲動になるようにしたい。

 参照文献 『疲労とつきあう』飯島裕一 『近代の思想構造 世界像・時間意識・労働』今村仁司 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん)