政権のかたよった学者の選び方と、それによる排斥と分断―いろいろな声による多元や包括(包摂)のほうがのぞましい

 政権のやることに、学者が批判を行なう。そうした学者は政権にとってうとましいことから、政権はそうした学者を学術会議に任命しないで、そこから外したのだという。

 与党である自由民主党菅義偉首相は、政権を批判する学者をわきに追いやるようなことをしているが、これはふさわしいことなのだろうか。政権がやることが正しいのだから、それにたいして批判を投げかける学者はあってはならないのだろうか。政権を批判する学者は、周縁に追いやられるのがまっとうな待遇なのだろうか。

 たしかに、民意の反映の濃さとしては、多数派の政治家はそれが相対的には濃い。学者は選挙で選ばれているとはいえないから、それが相対的には薄い。濃度のちがいがある。

 民意の反映で注意しておきたいのは、いくら民意の反映が相対的に濃いとはいえ、国民の多数派がまちがうことはしばしばある。大失敗をすることもある。多数派の専制は危険だ。また、濃さと薄さの濃度のちがいはていどのちがいにすぎず、濃いとはいっても国民の民意と完全に等号(イコール)では結ばれない。そこには明らかにずれがある。国民の全体の民意を反映しているとするのは虚偽であり、脱全体化されなければならない。

 民主主義は大切なものではあるが、自分たちで自分たちのことを決めるものであり、その決めたことが正しいことかまちがったことかはあまり保証されないところがある。自分たちで決めたことであっても、それが自分たちに益になるとはかぎらないし、内容が正しいともかぎらないことがあるから、民意の反映が濃ければ濃いほどよい決め方ができるとは必ずしも言い切れない。見かたによってはそう見られる。

 親と子でいうと、子にとって親は他者に当たるからこそ、かえって子のことがよく見えることがないではない。子がすべて自分のことを自分で決めるのが民主主義だとすると、その濃さが濃いのがよいとばかりはいえず、親が介入することで薄めることがよいこともまたあるだろう。そうしたことがあるから、民意の反映が濃ければ濃いほどいついかなるさいにもよいとか正しいとは言い切れず、そのように完全にしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらい。親が立憲主義(憲法主義)で子が民主主義だとすると、子を絶対化することはできず、他者としての親の視点をくみ入れておくことがいる。

 菅首相による政権は、学者などを監視していて、政権に甘いことを言う学者は上に引き上げて行く。政権にきびしいことを言う学者は下に引き下げて行く。こうしたことをやろうとしているのだろう。これは国家主義のあり方だ。国家の公が肥大化して行く。

 遠近法においては、友敵理論をとることによって、政権にとっての敵を遠ざけて行く。政権にとっての味方を近づけて行く。そうした遠近法を政権はとっている。政権の味方と見なされると中心に近づいて行き、敵と見なされるとわきに追いやられる。

 虚偽意識化しているのが政権であり、その虚偽意識を保つためには、政権に甘いことを言う味方がまわりにいることが欠かせない。政権の味方がまわりにいないと政権の虚偽意識を保ちつづけられない。政権の敵は、政権が抱えている虚偽意識のいくつもの穴をさし示すことに長けているので、それをさし示されると政権にとっては困る。

 政権を批判することは、すなわち政権が抱えている虚偽意識のいくつもの穴にかぶさっているフタを引っペがすことだ。フタを引っペがされては困るので、それをしそうな学者は敵だと見なして冷遇する。フタをかぶせつづけることに力を貸してくれる学者は厚遇する。

 かなりきびしい言い方になってしまうのはあるかもしれないが、政権の味方ばかりで、政権のやることに批判をさしはさまないのであれば、それは極端に言えば学問の死を意味するのではないだろうか。権力の奴隷やたいこ持ちになり下がる。

 学問についてはまったくの素人だから、的を外したことを言ってしまうかもしれないが、大切なことは、どんどん問いかけを投げかけて行くことだろう。政権のやっていることや言っていることを頭からうのみにせずに、そこに問いかけを投げかけるようにして行く。それをされては困るのが政権の心の内である。

 政権の言っていることは最終の結論とはいえず、仮説にとどまっている。仮説であるためにがい然性がつきまとう。正しいことを政権が言うとはかぎらず、まちがいや嘘を言うことは少なくない。あたかも仮説ではなく揺るぎない最終の結論であるかのように見せかけることが多い。

 政権がしてもらいたいであろうことは、反学問すなわち政権のやることやいうことにたいしていっさい問いかけをもたないことである。ただすなおにしたがっていればよい。政権のことをうのみにしてくれればよい。

 学問は学と問いかけによるのがあるとすると、政権がしてもらいたいことと逆のことをするようにして、どんどん問いかけを投げかけていって、政権のやることや言うことをうのみにしないようにしたほうがよい。

 政権がやってもらいたいであろうことを政権の顔色をうかがいそんたくして空気を読んでやるようにすることがいついかなるさいにも客観的によいことなのではないだろう。政権がやってもらいたくはないであろうことをやるようにして、できるだけ価値をもつようなさまざまな方向性からの多角的な問いかけをどんどん投げかけて行く。そうするようにできれば、質問する力(inquisitive mind)がついて行く。いまの日本の社会に欠けていることの一つはそこにあると言えるのがありそうだ。

 参照文献 『学問の技法』橋本努 『質問する力』大前研一 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『うたがいの神様』千原ジュニア 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『公私 一語の辞典』溝口雄三