政権のかたよった学者の選び方と、国家が個人の内面に踏みこんで行きがちな日本の国のあり方

 政権が気に食わない学者を、学術会議から外す人事を行なう。与党の自由民主党菅義偉首相による政権はそうしたことを行なっている。ここに見てとれるのは、日本の国のなりたちの明治の時代から引きつづいている、国が個人の心の内面にまで踏みこんできて介入してくるあり方ではないだろうか。

 近代の国民国家は中性国家の原則がとられるのがいるのだとされる。これは国家が個人の心の内面にまでは踏みこまないようにするものだ。個人が心の内面においてどのようなことを思ったり(thought)信じたりしてもそれは個人の自由だとする。思想の自由(freedom of thought)だ。思ったことを表にあらわす表現の自由(free speech、free expression)につながって行く。

 明治の時代に日本の国がつくられたが、そのときから日本は近代の中性国家の原則がとられてこなかった。国家が個人の心の内面にまで踏みこんで介入して行く。それがあらわれているのが戦前につくられた教育勅語である。

 教育勅語では国民の心の支配が目ざされていた。天皇がいて、その下に国民が臣民(しんみん)としてある。天皇にしたがうのが臣民である国民だ。天皇は日本の国の唯一の主権者だった。天皇の手段や道具としてあったのが臣民である国民であり、天皇の赤子とされた。いざとなったら天皇のために臣民である国民は命を投げ出すことがいるのだとされる。そこに欠けているのは国民の自由や自律性(autonomy)だ。国や天皇に動かされて支配される他律(heteronomy)のあり方がとられる。

 自律性は自分(auto)で自分を統治する(nomy)ことだ。それをなすためには個人の自由があることが欠かせない。日本の国ではこれが国民に許されず、国が個人にたいしてそれを許さないことがいまだに引きつづいているように見うけられる。日本の国や天皇のような、上位とされる者(hetero)によって個人が動かされて支配される(nomy)他律のあり方が根づよい。政治の権力者などの上位とされる者からの呼びかけにすなおにしたがいやすく、にらまれること(にらみ)に弱い。

 戦争に負けたことによって、戦前のあり方が改まったのかといえば、そうとは言えそうにない。明治の時代の国がつくられたときからのあり方がいまにも引きつづいてしまっている。それがいまにも引きつづいてしまっているのは、いまにおいて反動の復古主義がおきているのがあり、また過去に日本の国がなしたまちがいをしっかりと反省してこないでいい加減なままでいまにいたっているからだろう。

 日本の国は、近代の中性国家の原則がとられないことが国の性格としてあり、たやすく国家が国民の心の内面にまで踏みこんできて介入してしまうまずさをもつ。それがあたかもよいありかたなのだとされてしまう。それを改めるようにして、国家の公が肥大化して行かないようにして、個人の私が押しつぶされないようにして行きたい。

 国家の公が肥大化して行くと、明治の時代に国がつくられたときから引きつづいている国体が力を持つようになり、国をよしとすることを強いるような精神主義や根性論がまかり通ることになってくる。しっかりとした土台を欠いた観念がひとり歩きしていって、国家をよしとする神話が強まって行く。そうならないようにするために、明治の時代に日本の国がつくられたときから引きつづいている近代の中性国家の原則を欠いたあり方を見直すことをのぞみたい。

 参照文献 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン 森村進 森村たまき訳 『新版 主権者はきみだ 憲法のわかる五〇話』森英樹 『現代思想を読む事典』今村仁司