性の少数者と、足立区がほろびること―少数者と多数者と、異常と正常の区別

 性の少数者である LGBT が広まれば、日本の東京都の足立区はほろぶ。足立区の自由民主党の区議会議員はそう言ったのだという。性の少数者である LGBT の人たちが法律で守られると足立区はほろびるのだと言っていた。

 足立区の自民党の区議は、性の少数者である LGBT に否定的なことを言っているが、このことをどのように見なすことができるだろうか。区議は、足立区がほろびるのはよくないという前提条件をとっているが、ほんとうにそれはよくないことだと言えるのだろうか。それは必ずしも自明なことだとは言えないのもある。

 足立区は人間の集団でなりたっているが、人間がいることや、人間がなしている行動は、まったくもって正しいことだとは言えそうにない。人間が地球の自然の環境を壊しつづけているのがあるし、人間は気候正義(climate justice)に反することを行ないつづけている。

 人間を中心化する人間中心主義(ヒューマニズム humanism)で見てみれば、人間が正しいことになり、人間が存続しつづけることが正しいことになる。それを絶対化せずに相対化するようにして、人間を脱中心化する反人間中心主義(アンチ・ヒューマニズム anti-humanism)によって見られるとすると、人間がやっていることには悪いことが少なからずあるのは否定できない。人間は存続しつづけてはならず、ほろびないとならないとするのは言いすぎにしても、人間がこれから先にずっと存続しつづけることが絶対に正しいとは言い切れないので、人間のこれまでのあり方を改めるようにして、うしろ(過去)向きの視点によって反省をすることは必要だ。

 人間は錯乱している(ホモ・デメンス homo demens)とされるのがあり、本能が壊れているのがある。性においては、人間は本能が壊れているために、男性や女性とは観念化(物語化)されたものだ。それらの二つの記号に完全にはっきりと割り切ってしまえるものだとは言えそうにない。それらの二つの記号だけだと離散(デジタル)によることになるが、じっさいのありようは連続(アナログ)になっているのがある。

 一か〇かや白か黒かといったことであるよりも、中間の灰色のところがあるものだし、男性または女性のあいだの分類線は揺らいでいるものだろう。完全に純粋な男性または女性がいるのだとするのは、そのようにしたて上げたり基礎づけたりすることだが、それは現実にはできづらい。心理学者のカール・グスタフユング氏は、アニマとアニムスがあるとしていて、男性の中の女性の要素や、女性の中の男性の要素があるとしている。

 人間は錯乱していて本能が壊れていることをくみ入れられるとすると、まったくもって正常な人間がいるとはしづらいし、まったくもって異常な人間がいるともしづらいだろう。正常と異常や正気と狂気とのあいだの分類線は揺らいでいる。多かれ少なかれ人間は狂っているのがあり、その狂い(狂いすぎ)を和らげるものとして自由主義などがある。

 自由主義からすれば、無知のベールをとれるのがあり、自分が少数者や弱者だったとしたらどうなのかと仮定することがなりたつ。その仮定に立てば、少数者や弱者であったとしても生きて行きやすいような社会であることがのぞましい。それをうら返せば、多数者や強者しか生きて行きやすくない社会は生きて行きづらい息ぐるしい社会であり、異常な社会と言っても言いすぎではないのではないだろうか。

 足立区は一つの人為の空間だが、その空間がただありさえすればそれでよいとはならないだろう。その空間がどういった内実をもっているのかが大事であり、その内実は(人間の)量の多さによってはかられるのではないようにしたい。量が多ければ多いほどよいのだとはいえず、量が多くても質がひどく悪ければまずい。量だけに目を向けて質をないがしろにするのは本末転倒なことだろう。

 人間を量だけではかるのは、人間を道具や手段と見なすことにつながって行く。人間のことを数に還元することになる。たとえば国家などの、その空間のために人間がいるといったような、空間と人間の取りちがえがおこってしまう。ほんらいは、一人ひとりがみなそれぞれでちがった個人がいて、そのそれぞれの個人のために空間があるものだ。個人を人格主義によって見るようにして、個人をそれそのものを(道具や手段ではなく)目的として見なしたほうが、空間の質や創造性は上がって行く。そう見なしてみたい。

 参照文献 『子どもが減って何が悪いか!』赤川学現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『唯幻論物語』岸田秀 『創造力をみがくヒント』伊藤進