二〇二〇年の東京五輪を開くことに変わりはないと都知事は言っている

 二〇二〇年の東京五輪はあくまでも開かれる。とり止めにすることは基本としてない。東京都知事はそう言っている。

 新型コロナウイルスへの感染が社会の中でおきはじめているが、このことをくみ入れると、まちがいなく必然として五輪が開かれるとは言い切れないかもしれない。可能性の次元で見てみると、開かれるかもしれないが、開かれないこともなくはないだろう。

 開かれるという文脈と開かれないという文脈があるとすると、この二つのうちで、開かれるという文脈に両足を置いているのが都知事のあり方だ。これだと開かれないという文脈がないがしろになりかねない。片足は開かれないという文脈に置いたほうがつり合いをとりやすい。

 片足をそれぞれの文脈に置いておけば、危険性を分散することになる。認知のゆがみが大きくはたらくことを和らげられる。認知しているのとはちがうようになることがもしかするとあるから、そうなると反証(否定)されることになる。

 どのように出るのかはわからないが、これから五輪の開催まであと少ししか時間がないけど、時間の流れをくみ入れられるとすると、まったくもって安定しているとは言えそうにない。予断を許さないのがあるから、もしかすると安定が崩れて予定とはちがったことになる可能性がおきてくることがある。それをあらかじめ早めにくみ入れておくのはまったく無駄になることではなくて、多少は益になることが見こめる。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠