クルーズ船の中で感染症への感染が広がっていた中で、日本の行政の対応に一部から批判がおきている。
対応に当たっていた現場の人たちはがんばっていたのはあるのだから、その足を引っぱるようなことをするべきではないという声もまたある。たしかに、現場の人たちのがんばりをまったく頭から否定してしまうようなことはよくないかもしれない。また、船の中が客観にどういう状態だったのかはうかがい知ることができないものだ。その全体像は十分にははっきりとはしていない。
色々な見かたができるのはあるだろうが、一つの文脈としては、問題を解決して行くうえでは、おきたことはおきたこととして認めて行くことがいる。まずいところがもしもあったのであれば、それは事実として認めて行くことがいるから、それを認めないのであれば、問題の解決のさまたげになる。
事実と価値に分けて見られるとすると、事実は事実として、価値は価値としていちおう分けて見ることが必要だ。そこがひどくうやむやになって、価値を事実としてしまうと、事実がわからなくなる。
うまく行ったのにちがいないという価値があるとすると、現実はそうではなかったのにも関わらず、価値を優先させることによって、それを現実におきた事実としてしまう。そのように価値を事実(価値の事実化)とするのだと、負の事実を隠ぺいや抹消することになる。あくまでも正の価値や正の事実しかおきていないとするのであったとしても、じっさいの現実にある負の価値や負の事実がなくなるわけではない。
いちおうは価値と事実を切り分けるようにして、そこをいっしょくたにするようではないようにしたい。クルーズ船についてだけではなくて、いまの政治の一般において、価値と事実が混同されてしまい、負の価値や負の事実となるようなことがとり落とされて切り捨てられていることが少なくない。
政権にとって都合の悪いものを捨象してしまうと、現実からかけ離れたあり方にまちがって抽象化される。まちがいはないのだという無びゅうによることになる。じっさいにはまちがいがある可びゅうなのだから、それにもとづくためには、都合のよいことだけを事実だとはせず、また(多少は避けられないのはあるにしても)価値を事実化しすぎないようにすることがいる。