クルーズ船への日本の行政の対応に批判の声が一部からおきている

 クルーズ船の中で、感染が広がっていたさいに、現場の人たちはみながんばって対応に当たっていた。その足を引っぱるべきではない。その足を引っぱることになるような、批判や問題点の指摘はつつしむべきだ。そういう声があがっている。

 クルーズ船の対応については、まちがったことが行なわれていたおそれがあって、内外から批判の声が一部でおきている。国内ではクルーズ船の中に入った専門家が、対応に不適切さがあったことを指摘していた。

 たしかに、クルーズ船で感染の広がりを何とかするために対応していた現場の人たちはがんばっていたのはあるだろうけど、そうだからといって、適切なことが行なわれていたのか、それとも不適切なことが行なわれていたのかは、また別な問題だろう。

 どういうことが最良だったのかがあるとして、その最良のことが行なわれていたのかを見られる。最良や最善のことが行なわれていたのなら、そこには問題はなかったことになる。そうではないのであれば、そこには少なからず問題はあったということになるだろう。

 がんばっているかどうかというのは、いわばやり方についてのことであって、いちじるしくなまけていてはまずいのはあるが、それで十分といえる条件となるものとは言えそうにない。不十分なところがあったのであれば、たとえがんばっていたのだとしても、問題がないとは言えないだろう。

 船をこぐことでいうと、がんばってオールを動かしているのだとしても、行きたい方向とは逆に、またはずれた方向に進んでしまうのだとしたら適していないことをしていることになる。がんばってオールを動かすほどにずれが大きくなって行くこともある。

 がんばることを目ざしていたのであれば、それで十分な条件となるだろうが、そこを目ざしていたのではないとすると、それはあくまでもやり方にとどまることである。どういうやり方でのぞむかは大事なことではあるが、それは条件の一つにとどまる。がんばっていさえすればよいのであれば、それで十分な条件になるが、そうとは言えないから、ほかの条件を色々に見て行くことは益になる。

 精神論で何でも片づくのであれば、がんばることがもっとも価値が高くなるだろうが、そうではないのなら、ほかのものの優先順位のほうが高いか、またはほかに価値があるものもまたいくつもある。

 対応にまずいところがあったのであれば、その対応を指揮や統括していた責任者の責任ということになってくる。その責任をもつ者は、最終的には権力をになう政治家に当たるのだと見なせる。その権力をもつ政治家か、またはほかに責任者がいるのであれば、いざというさいにはしかるべき責任をとることがいるのではないだろうか。でないと、責任者が不在な中で、各々がそれぞれの判断で動いていたということを示すことになりそうだ。